生涯
南北朝の戦乱が勃発すると、父の貞親とともに南朝方として越後で活動した。しかし、後に祖父の時親の取り成しで北朝方に帰順し[5]、一族とともに安芸に下向した。毛利氏の総領は祖父の死後、子の元春が継いでいたため[6]、親衡は(日下津城)を築いて別家を起こし、子孫は坂氏を名乗り、安芸毛利氏の有力支族(庶家)の一つとなった。
武勇に優れ、かつ反骨心に富む人物であったようで、南朝:正平5年/北朝:貞和6年、観応元年(1350年)に勃発した観応の擾乱の際には反幕府方として活動し、周防の大内氏と同盟して九州に出陣した子の元春の留守を攻撃し[7]、また、日下津城に攻め寄せた安芸守護・武田氏信の軍勢を籠城の末撃退する[8]技量を見せている。
脚注
出典
参考文献
- 時山弥八編国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592 。
- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。(全国書誌番号):(73004060)。 国立国会図書館デジタルコレクション