生涯
大内氏配下で周防国玖珂郡山代庄[1]の志不前郷・貞宗名15石を領した(毛利右衛門四郎)の子として生まれる。
天文14年(1545年)9月29日、周防国玖珂郡山代庄[1]の志不前郷・貞宗名15石の相続したが、天文20年(1551年)5月23日には嫡男・房郷に所領を相続させることを大内義隆から認められた。同年9月1日の大寧寺の変で大内義隆が陶晴賢に討たれたため、以後は大内義長に仕えた。
天文24年(1555年)6月23日に陶晴賢より「(備前守)」の挙状が出されているが、同年10月1日の厳島の戦い以前に房郷と共に毛利元就に帰順。
その後の房元の動向は不明。
脚注
参考文献
- 『萩藩閥閲録 遺漏』巻2「林八郎右衛門」