殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ、生没年不詳:大治5年(1130年)頃 - 正治2年(1200年)頃)は、平安時代末期に活躍した歌人である。女房三十六歌仙の一人。父は藤原北家勧修寺流従五位下(藤原信成)。母は従四位式部大輔菅原在良の娘。一説に道尊僧正の母ともいう[1]。
経歴
若い頃から後白河院の第1皇女・殷富門院(亮子内親王)に出仕、それに伴い歌壇で長年にわたり活躍した。俊恵が白川の自坊で主宰した歌林苑(宮廷歌人の集まり)のメンバーでもあり、藤原定家・寂蓮・西行・源頼政など多くの歌人と交際があった。また、文治3年(1187年)の百首歌等、自ら主催して定数歌や歌会の催しを行うこともあった。建久3年(1192年)の殷富門院出家に伴って自らも出家したという。私家集である『殷富門院大輔集』、及び『千載和歌集』以降の勅撰集、その他私撰集等に多数の作品を残している。
逸話
- 鴨長明が『無名抄』の中で「近く女歌よみの上手にては、大輔・小侍従とてとりどりにいはれ侍りき(=近ごろの女流歌人のなかで上手なのは殷富門院大輔と小侍従であるとさまざまにいわれている)」[2]と述べる等、当時最高の女流歌人であると目されていた。その歌風は『歌仙落書』によると「古風を願ひてまたさびたるさまなり(=古いスタイルの和歌を手本として古風な趣がある)」と評されたが、一方では、本歌取りや初句切れを多用した技巧的な面もある。また、多作家としても知られ、「千首大輔」の異名[* 1]もあった。
- そのライバルと目されていた小侍従[* 2]と夜通し連歌に興じることもあった[3]。
小侍従に始めて対面して夜もすがら連歌などし明かして帰るとて こじじゅう
— 『殷富門院大輔集』
思ひいでなきこのよにてやみなまし 今宵にあはぬ我が身なりせば
かへし
なかなかになにか今宵にあひぬらん あはずはけさの別れせましや
九月十三や ひとびとぐしてこじじゆうのもとへゆきたるに おはしまさずといふに
— 『殷富門院大輔集』
またそこへたづねゆきて ものがたりなどするついでに 大輔
つきにのりあはぬものゆゑかへらまし ふかき思ひのしるべそへずは
かへし 小侍従
まてばこそたづねもくらめつきをみる ながめにもまづわすれやはする
このついでに 五条さい相中将みちよりぐして 経などよみ給ひしに
をりからにや いたくしみまさりてきこえしかば 大輔
ながづきの月をばいつもみしかども こよひばかりのそではしぼらず
殷富門院大輔 人丸はか尋て仏事をこなふとて 人々に尺教歌よませ侍けるに 権中納言長方
— 『玉葉和歌集』 巻第十九 釈教歌
かきつめしことはの露のかすことに 法の海にはけふやいるらん
- 建久2年(1191年)頃、源平争乱後の復興が進行していた南都への巡礼に出かけ、東大寺で再建間もない大仏を拝した[* 4]後、興福寺南円堂、一言主社等を参拝した[6]。荒廃した元興寺では、智光曼荼羅を目にした可能性もある。
元興寺ことのほかに荒れて 煙のたぐひにはなくて うてなの露しげきに似たり
— 『殷富門院大輔集』
飛ぶ鳥や飛鳥の仏あはれびの そのはぐくみに漏らし給ふな
これに智光が曼陀羅おはします
夢のうちに手の際みせし極楽を とくみのりにぞ思ひあはする
この聖たち 昔の芹摘みしとかや聞こゆる
思ひがけぬものから あはれに
作品
歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 |
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千載和歌集 | 殷富門院大輔 | 5 | 新古今和歌集 | 殷富門院大輔 | 10 | 新勅撰和歌集 | 殷富門院大輔 | 15 |
続後撰和歌集 | 殷富門院大輔 | 6 | 続古今和歌集 | 殷富門院大輔 | 2 | 続拾遺和歌集 | 殷富門院大輔 | 1 |
新後撰和歌集 | 殷富門院大輔 | 1 | 玉葉和歌集 | 殷富門院大輔 | 4 | 続千載和歌集 | 殷富門院大輔 | 2 |
続後拾遺和歌集 | 殷富門院大輔 | 1 | 風雅和歌集 | 殷富門院大輔 | 4 | 新千載和歌集 | 殷富門院大輔 | 2 |
新拾遺和歌集 | 殷富門院大輔 | 4 | 新後拾遺和歌集 | 新続古今和歌集 | 殷富門院大輔 | 2 |
百人一首
- 90番
殷富門院大輔
— 『千載和歌集』 巻第十四 恋歌四
見せはやなおしまのあまの袖たにも ぬれにそぬれし色はかはらす
たいしらす 源重之
— 『後拾遺和歌集』 巻第十四 恋歌四
松島やをしまの礒にあさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか
- の本歌取となっている。