櫛田 陽一(くしだ よういち、1964年12月9日 - )は、将棋棋士。田丸昇九段門下。(棋士番号)は181。東京都出身。2012年6月29日に(引退)。
棋歴
漫画『5五の龍』との出会いをきっかけとして中学時代に将棋を覚えてから[1]僅か3年で、東京都名人優勝、アマ王将戦準優勝、支部名人戦優勝という快挙[2]。家庭の経済的事情で高校進学はできなかったが、働きながら将棋を続けてアマ棋界で屈指の強豪となる。このころの真剣師の小池重明と親交があった[3]。1982年、支部対抗戦優勝を機に周囲からプロ入りを勧められ[3]、1983年、1級にて奨励会入りを果たした。入会試験では、当時奨励会1級だった羽生善治を破っている。
プロ入りして初参加の第6回(全日本プロトーナメント)(1987年)で、大山康晴十五世名人、高橋道雄二冠(十段・棋王)らを撃破して決勝三番勝負に進出。決勝で谷川浩司王位に敗れる。翌年(1988年)は、王位リーグ入りする活躍を見せる。
さらに、その翌年度(1989年度)の第39回NHK杯戦では、中原誠棋聖(当時)らを破り、決勝では島朗前竜王(当時)を破って棋戦初優勝。当時四段。初出場初優勝の快挙だった。尚、この時の1回戦、対高橋道雄戦では櫛田が対局に遅刻してしまうが、結局対局が認められ、高橋から勝利を挙げた。この時の解説は師匠である田丸昇だった。当時は他の棋戦とは違い、テレビ棋戦収録での遅刻に対する罰則はなかった[4]。
第13期(2005年度)銀河戦で、佐藤康光に勝ちベスト8。同棋戦では、第16期(2008年度)でも島朗に勝ちベスト8。
1995年、順位戦C級2組(降級点1保持)から宣言により30歳の若さ[5]で(フリークラス)に転出した。フリークラス転出以降も成績は優秀で、もしC級2組からの降級であったなら、規定により順位戦に復帰できるほどの勝率、勝ち星を挙げた[6]。しかし櫛田は宣言による転出であるため復帰の規定は適用されなかった。
第23期(2010年度)竜王戦6組でベスト4に進出し、竜王戦・順位戦を通じて自身初の昇級のチャンスを迎えた。しかし、準決勝、3位決定戦、5位決定戦のいずれでも敗れ、5組昇級はならなかった。
上述の経緯により、2011年度末の時点で勝ち残っている[7]公式戦を全て消化した日をもって引退することが内定していた。そして王将戦を勝ち残り、竜王戦6組昇級者決定戦への参加権を残した状態で最終年度末を迎え、王将戦は2012年4月12日の木村一基戦、竜王戦6組昇級者決定戦は同年6月29日の佐藤慎一戦でそれぞれ敗れ、2012年6月29日付で引退となった[8]。
人物
昇段履歴
昇段規定は、将棋の段級 を参照。
主な成績
棋戦優勝
- 第39回(1989年度)NHK杯戦
優勝合計1回
記録
- NHK杯戦 最低段優勝(四段、1989年度)
著書
- 世紀末四間飛車シリーズ(全3巻、毎日コミュニケーションズ、(ISBN 4-89563-545-7) ほか)
脚注
- ^ 「将棋世界」2012年5月号「感想戦後の感想」より。
- ^ 「将棋世界」2000年1月号付録
- ^ a b 田丸昇著「将棋界の事件簿」190ページ
- ^ この事件をきっかけに日本将棋連盟はテレビ棋戦における遅刻に対する罰則(状況により罰金、不戦敗、出場停止、スポンサーへの賠償金など)を設けている。
- ^ 宣言による転出者では史上最年少、降級点規定による降級者を含むと熊坂学(27歳)に次ぎ、藤倉勇樹と並ぶ若さ
- ^ 連盟公式サイトによれば、櫛田は2004年度、2007年度に、年間17勝以上かつ勝率6割以上という順位戦復帰規定を上回る成績を挙げた。
- ^ 竜王戦は、引退年度のランキング戦を負けても同組の昇級者決定戦に参加する権利はある。
- ^ “櫛田陽一六段が引退|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
- ^ “王位戦”. 日本バックギャモン協会. 2019年7月30日閲覧。
- ^ “昇段・引退棋士のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 櫛田陽一|棋士データベース|日本将棋連盟