橘 輔政(たちばな の すけまさ)は、平安時代中期の貴族。名は輔正とも表記される。大納言・橘好古の三男。官位は従四位下・(越中守)。
経歴
天元5年(982年)3月5日以前に(備中介)に任ぜられる。その後、修理亮に転じた。寛和元年(985年)7月16日、祈雨のために十六社に奉幣が行われた。輔政は廣瀬神社、龍田神社へ奉幣使として向かった。しかし、その途中にて人に襲われ、御幣を盗まれた上に打凌されてしまう。即ち事情が上奏され、検非違使が派遣された[1]。
長保元年(999年)11月に子・(惟頼)やその郎党が殺害されるという事件が起こる。輔政は右京大夫・藤原致忠を訴えてこれを佐渡国に流した。治安4年(1024年)以前に(山城守)を務め、万寿2年(1025年)には(越中守)として任国に赴任するなど地方官を歴任。その際に右大臣・藤原実資より綾織の褂を賜っている[2]。各系図によると、位階は従四位下に至ったという。
官歴
『小右記』による。
系譜
『橘氏系図』(群書類従)による。