概要
鎌倉時代から南北朝時代
桑折氏初代頼長(心円)は伊達氏3代伊達義広の子とされる。また、4代伊達政依の子ともされる。この頼長は『吾妻鏡』に見えるため、鎌倉に居住していたとみられる[1]。鎌倉幕府が滅び、伊達氏が南朝の陸奥国式評定衆となると、根拠地の伊達郡に移住したと見られる。
室町時代
伊達氏の領土拡張に伴って各方面へ出陣しているが、伊達氏の置賜郡攻略に伴って長井小松城主となった。文明11年から12年(1479年 - 1480年)にかけて、出羽国寒河江荘を攻めて大将桑折播磨守宗義が討ち死にした(菖蒲沼の戦い)。嫡子宗利は菩提を弔うため、戦場にほど近い慈恩寺境内に松蔵寺を建立した[2]。その後、伊達氏の内訌天文の乱で桑折景長が活躍し、伊達晴宗の守護代に任じられた。
安土桃山時代から江戸時代
景長は伊達稙宗の子を養嗣子として迎えていたが夭折したため、実子宗長を後嗣とした。宗長の子政長は(文禄の役)で病死したため、石母田景頼の子重長(桑折宗長の孫)を迎えるも夭折、景頼四男の(宗頼)を迎え、また実父の景頼も桑折景頼を名乗った。重長の子の(定長)は、飯坂の局(桑折景長の孫)の懇願により(飯坂家)を継いだ。景頼と宗頼は、飯坂の局の子で伊達政宗の庶長子の伊達秀宗の伊予宇和島藩入部に従って家老となり、桑折家は宇和島藩家老の家系として続いた。
原田宗資は桑折宗長の子だというが、原田氏は伊達騒動で断絶している。また、飯坂家も原田宗資の孫にあたる(飯坂輔俊)がこの事件の連座責任で切腹となり、断絶の憂き目に遭っている。
系図
脚注
参考文献
- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史』 [史料編 2] (大江氏ならびに関係史料)、寒河江市、2001年3月。(全国書誌番号):(20161764)。