歴史
慶長17年(1612年)または慶長7年(1602年)、常陸片野藩主滝川壱岐守正利が亡父羽柴下総守雄親(滝川雄利。慶長15年(1610年)没)の菩提所として江戸の神田昌平橋内にあった広徳寺に創建した[1][2]。開山は広徳寺第3世大徳州甫。院号は開基である滝川雄利の戒名「桂徳院殿前法印三英周傑庵主」に由来する[3]。
寛永12年(1635年)、広徳寺が下谷に移転し、蒲岩和尚により同寺境内に再建された[2]。
安永6年(1777年)、火災により焼失。明治維新後、広徳寺塔頭の泰寿院および梅雲院を合併し[2]、明治39年(1906年)、隣地(梅雲院跡地)に移転した[1]。
大正12年(1923年)、関東大震災のため再び焼失[2]。仮堂を建てて復興したが、昭和20年(1945年)、強制疎開を命ぜられて建物が取り払われた。昭和27年(1952年)に練馬区桜台の広徳寺別院(現本坊)隣地に移転し、昭和30年(1955年)に本堂と庫裡が落慶した[4]。
本堂
墓地
広徳寺境内裏の広徳寺共葬墓地(非公開)の一角にある。関東大震災後、まだ下谷に残っていた桂徳院に先立って墓地のみ練馬に移転した[5]。桂徳院の墓は一般に広徳寺墓地としてまとめて紹介される[6]。