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立地と構造
(高善山)(竜神山)の北西にあたる丘陵地にあり、単郭四方土塁・周濠の城で、多重の空堀などの構造を持つ。東側に二重の空堀、主郭虎口の石垣痕跡が現存、東隅に「御滝女郎化粧井戸」と呼ばれる大井戸が残っている。
歴史
1558年(永禄元年) - 1570年(元亀元年)の間に(滝野貞清)が築城したとされる。1574年(天正2年)に貞清が死去した後は滝野吉政が継ぐ。1581年(天正9年)の天正伊賀の乱では、城主・滝野吉政や百地丹波をはじめ、近在や(比自山城)から落ち延びてきた土豪など、1600余人で立て篭もり織田信長に抵抗した[1]。最終的には和議に応じて開城した[1]。