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板谷 四郎(いたや しろう、1913年6月10日 - 1995年9月29日)は、将棋棋士。三重県伊勢市出身。A級在籍3期。木村義雄十四世名人門下。棋士番号29。板谷進(将棋棋士、九段)は次男。
経歴
20歳の時に召集され、中国大陸を転戦[1]。3回にわたる召集で軍隊生活は8年以上におよび、1945年、鹿児島で終戦を迎える[1]。
1940年、26歳の時に木村義雄名人(当時)門下で奨励会に入会(二段)。1941年に四段(プロ入り)。
1950年に順位戦でA級に昇級して、3期在籍。1950年度の第1期九段戦で準優勝。1954年に全八段戦優勝。
1959年に引退。名古屋市において日本将棋連盟東海本部長を長く務めたほか、板谷進、石田和雄、大村和久、北村文男、中田章道らの弟子を育成した。
逸話
- 1959年の引退と同時に名古屋市錦に将棋道場(板谷将棋教室)を開設。高校卒業後、1年ほど板谷の下で内弟子生活を経験した中田章道は、道場を手伝いながら修業に励む日々だったが、板谷はそんな中田にフライドチキンや栄にあった寿司與の寿司折りを差し入れてくれるなど、大変優しかったという[3]。
- その板谷将棋教室は、1970年代には板谷が本部長を務めた日本将棋連盟東海本部(現在の日本将棋連盟東海普及連合会)の拠点も兼ねるようになり、板谷の没後も中部地方の普及拠点として長く営業を続けたが、入居していたビルの建て替えに伴い2008年に閉館。栄に移転すると同時に指導棋士の中山則男が経営を引き継ぎ、「栄将棋教室」と名を改め現在も営業を続けている[4]。
- 1986年、岐阜で行われた十段戦七番勝負第2局の立会人を務めていたときに、打ち上げの席にその頃酒で身を持ち崩し将棋の方も投げやりになっていた芹沢博文九段が現れた。この時板谷は「芹沢、お前の最近の態度は何だ。ほかでチャラチャラ稼ぐから将棋がおろそかになるのだ」と面と向かって叱咤した。当時の芹沢に面と向かってそれを言った棋士は板谷だけだったという。[5]
- 「中京棋界にタイトルを」は、板谷四郎以来の宿願だったが、2020年の曾孫弟子の藤井聡太の棋聖獲得により、達成された[6]。
昇段履歴
- 1940年 二段 (奨励会に入会)
- 1941年1月1日 四段 (プロ入り)
- 1943年 五段
- 1948年 七段
- 1950年 八段
- 1959年 引退
- 1979年11月 九段
戦歴
- 棋戦優勝 1回(1954年-全八段戦)
栄典
- 1986年 勲五等双光旭日章
脚注
関連項目
外部リンク
- 板谷四郎|棋士データベース|日本将棋連盟