歴史
寛永元年(1624年)に山村甚兵衛良勝[1]の家臣の堀尾作左衛門一成が開基し、木曽福島の興禅寺五世の桂嶽祖昌を請じて開山した。聖観世音菩薩を本尊としている。
開基当時は駒場村に寺院が建立されたが、寛永3年(1626年)4月に現在地に移転し伽藍が建立された。
現在も中津川市駒場に字名として松源寺が残っているのは、この理由による。
嘉永4年(1851年)同寺にて大会中に出火し、伽藍・寺宝・古文書等一切を焼失する。従って詳しい縁起は不明である。
馬籠大黒屋日記に火災当日の模様が次のように記されている。
「嘉永四年二月十二日、中津川 手金野 松源寺にて大会あり、御坊様達 二三〇余人 托鉢に御出被成 (中略) 内八三人 大黒屋にてお昼差上候 (中略) 同年二月二七日、松源寺大会中 詳堂飯焚くどより出火、方丈及び観音堂に至るまで不残焼失、その日風立、九ツ頃出火、八ッ時不残焼失」
現在の本堂・庫裏は、安政2年(1855年)一二世忠山宗恕の代に再建されたものである。
一三世通峯素融遷化後、一時無住の時代があり荒廃も甚しかったが、一四世恵山自選が復興に努めた。
境内
境内には観音堂・稲荷大明神が祭られている。
観音堂は、明治33年(1900年)に再建された。堂内に祀られている烏枢澁摩明王像は江戸時代中期前の作で、苗木遠山氏の菩提寺の雲林寺にあった仏像であったが、廃仏毀釈の際に松源寺に移された。
昭和46年(1971年)10月28日に、中津川市の文化財に指定された。
嘉永4年(1851年)の大火で焼失した稲荷大明神は、古来福利効益多として多くの信仰を得つづけている。
また墓地内には通称「せきばぁ様」と呼び親しまれている古墓がある。咳に病む人に快愈効有りと、煙草を供え祈願する参詣者が多い。
参考文献
- 中津川市史 中巻Ⅱ 第五編 近世2 第八章 寺社 第二節 寺院 p1626 ~ p1628
関連項目
- ^ 山村甚兵衛良勝は尾張藩の重臣で、木曽代官と福島関所の管理を任され、恵那郡・土岐郡・可児郡の中山道沿いの村々の領主でもあった。