略歴
文正元年(1466年)、(松浦豊久)の次男として誕生。正は父から家督を継ぐと平戸西部の(津吉氏)を討伐し、生月の(加藤氏)、(一部氏)、(山田氏)を降し、生月島や北松浦半島に勢力を拡大していった。
文明18年(1486年)[2]、(峯氏)の治める田平の地を巡り峯氏へ養子へ入った兄・昌(志佐純元)と対立した正は昌の拠る(里城)を攻撃し、昌は肥前有馬氏の元へ逃亡、これにより正は田平の地を手中に治めた[3]。また、正は、この間、(御厨氏)家中の混乱に乗じて(御厨祐忠)父子を追い、御厨を領有している。
延徳3年(1491年)、正の攻撃を受け敗れ、田平を奪われた昌から支援の要請を受けた有馬貴純が、少弐政資・(大村純伊)・平戸松浦氏にとっては嫡流にあたる相神浦松浦氏の松浦定を誘い軍を北上させ、途中、降伏した(佐々氏)や(志佐氏)らの軍を合わせた連合軍が正を攻めた。正は(白狐山城)を放棄し(箕坪城)へ籠城したが、3ヶ月後、城を脱出し大内義興に支援を依頼する((箕坪合戦))[3]。この際、大内政弘から偏諱を受け弘定を名乗った。
明応6年(1497年)、北九州に目を向けた大内義興は、肥前を掌握していた少弐政資・高経父子を攻め滅ぼし、少弐氏に味方していた有馬氏を牽制すべく、守護代千葉興常に、龍造寺氏・大村氏・蒲池氏を指揮させ、有馬氏側だった(志佐純勝)の拠る(直谷城)を攻めさせた。純勝を追い払うと平戸領を正に戻した[4][5]。
平戸へ復帰した弘定は、昌と和議を結び、和議の証として昌の子・源三郎(松浦興信)を養子に迎えた。また、箕坪合戦の際、連合軍に加担した佐々の(佐々氏)や江迎の(深江氏)等を次々と降し勢力下に置き、明応7年(1498年)11月2日には、(大智庵城)を攻め、嫡流・相神浦松浦氏当主となっていた定の子政を滅ぼし[6]、勢力を拡大。次代・興信以降の平戸松浦氏の基礎を作る。永正10年(1513年)には、五島列島を治める宇久氏家中の内乱(玉之浦納の反乱)で自刃した(宇久囲)の子・(盛定)が落ち延びてくると弘定はこれを保護している[7]。
永正12年(1515年)、死去。
脚注
出典
- 『肥前松浦一族』(外山幹夫著 新人物往来社)
- 『松浦家世伝』
- 『印山記』
- 『大曲記』
- 『深江記』