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生涯
延享元年(1744年)9月29日、三河吉田藩主松平資訓の三男として三河吉田で生まれる。父の養子となっていた資順が世嗣のまま死去したため、延享4年(1747年)2月2日に世子に指名される。宝暦2年(1752年)5月12日、父の死去により家督を継いで浜松藩主となる。
宝暦8年12月27日(1759年)、丹後宮津藩に移封される。宝暦11年(1761年)4月25日、病弱のため将軍に奉公が出来ないとして、領地の返上、または養子を貰い受け隠居することを願い出る。5月3日、幕府は養子相続と隠居を許可する。資昌は将軍への御目見を果たしていなかったが、親族合意の願い出を受け、本庄松平家の桂昌院との縁から特例として家の存続が認められた[1]。11月27日、家督を養子の資尹に譲って隠居する。宝暦12年(1762年)1月18日に死去、享年19。