松平 精(まつだいら ただし、1910年1月15日 - 2000年8月4日[1])は、鉄道技術研究所(現:鉄道総合技術研究所)の技術者。旧杵築藩主能見松平家の子爵・松平親信の三男[2]。妻は渋谷隆教の娘・方子。
学習院高等科を経て、1934年に東京帝国大学(現:東京大学)船舶工学科卒業[1][2]。造船所の実習では肉体労働が多く、知識を使うところが少なく感じたが、三菱航空機の工場を見学すると学問的であるため、航空機の道を選択する[1]。海軍航空技術廠の技術者募集に申し込み、海軍に奉職[1]。1935年から1936年にかけて陸軍に徴兵された後、海軍に復帰[2]。振動問題を手掛けるよう命じられ、機械振動学を一から勉強して専門家となる[1]。
試験飛行中の零式艦上戦闘機の空中分解事故の原因が、後尾翼昇降舵のフラッター(風速により旗めく現象)にあることを模型実験により突き止めた。山名正夫とともに原因調査のリーダーシップを取り、マスバランスが先に疲労破壊し、その状態で急降下試験をしたため、フラッターが発見したと結論付けた[3]。また、零式艦上戦闘機の別の空中分解事故の原因解析の際、10分の1スケールの主翼模型で風洞実験を行い、主翼のねじれ振動が起きることを突き止めた[1]。その他、雷電の振動問題の解決にも携わった。
戦後は鉄道技術研究所において、その当時多かった車両の脱線事故は台車の蛇行動であるという持論を展開した。飛行機と同様に鉄道も高速状態になると自ら振動する性質があると考え、模型実験で実証して蛇行動を広く知らしめた[1]。また、昭和20年代に自動車業界に技術提供し、国産初のダンパーを完成[1]。
一時期、公職追放の危機にあった。新幹線の開発プロジェクトにおいて、「高速車両の運動班」の班長を担当し、新幹線用台車の設計・実用化に貢献[1]。新幹線の空気ばねの主要開発を行ったことで有名である。新幹線0系電車の先端のデザインを設計した三木忠直、自動列車制御装置 (ATC) を作った河邊一とは鉄道技術研究所で知り合った。
略歴
- 1910年 - 東京・浅草で生誕[1]
- 1934年 - 東京帝国大学工学部船舶工学科卒
- 1934年 - 海軍航空技術廠飛行機部に入部
- 1935年 - 陸軍に徴兵され、幹部候補生として東京・立川の飛行連隊に入営(在営10ヵ月、再入営2ヵ月)
- 1936年 - 海軍航空技術廠飛行機部に復帰
- 1945年 - 国鉄鉄道技術研究所
- 1953年 - 「2軸鉄道車輛のだ行動とその防止法について」の論文を書き、東京大学で工学博士号を取得[4]。
- 1969年 - 石川島播磨重工業株式会社常務 同社技術研究所長、宇宙開発事業部長、技術本部長、常務取締役を歴任
- 1978年 - 同社顧問
- 1989年 - 日本機械学会名誉員
- 1990年 - テクノ・コンサルタンツ取締役会長
主な著書、主要論文
- 『基礎振動学』共立出版、1950年、ASIN B000JBG50O
- 『飛行機の振動』ニッセイエブロ、1991年6月、(全国書誌番号):(000002135228)
- 「(日本海軍における飛行機振動研究の回顧-1-フラッタ関係)」『日本機械学会誌』82(733) 日本機械学会
- 「(日本海軍における飛行機振動研究の回顧-2-動力装置による振動)」『日本機械学会誌』83(736) 日本機械学会
脚注
参考文献
- 小野田, 滋「鐡道人物伝 No.8 蛇行動現象に取り組んだ技術者 松平精」『RRR』第74巻第11号、鉄道総合技術研究所、2017年11月、34-35頁。