生涯
当時越前国大野藩主であった松平直基の長男として誕生。直基は出羽国山形藩、さらに播磨国姫路藩に国替を命じられるが、姫路の封地に赴く途上で死去した。直矩は慶安元年(1648年)8月17日、5歳で家督を相続したが、姫路は幕府にとって西国の抑えとなる要地であったため、幼少の直矩には不適当と判断され、翌慶安2年(1649年)6月9日に越後国村上藩に国替となる。
成人後の寛文7年(1667年)8月19日、転封により姫路に復帰した。
親族の越後高田藩(藩主松平光長とは従兄弟の関係)の御家騒動(越後騒動)に際し、出雲国(広瀬藩)主・松平近栄と共に一族を代表して騒動の調整を行うが、両名共に不手際を指摘され、直矩は領地を半分以下の7万石に減らされ、閉門の上で天和2年(1682年)2月7日に豊後国日田藩に国替を命じられた。
4年後の貞享3年(1686年)7月、3万石加増の上で出羽山形藩、さらに6年後の元禄5年(1692年)7月27日には5万石加増の上で陸奥国白河藩へ移され、格式の上では従前の15万石に復帰したが、生涯で幾度も国替を重ねた結果、家中は多大な借財を負うことになり、「引越し大名」なるあだ名をつけられた[1]
逸話
『土芥寇讎記』には「美小人を愛せらること、この体の事は非とすべからず。聖人にも一失あり、況や凡人をや。その上偏愛の心なしといえば害あるべからず。」と書かれており、「美少年好きではあるがこのようなことは非とは言えない。“聖人ですら一失ある”ものでありましてや凡人(聖人などではない一般人)であるから。それに極端にその道を暴走しているわけでもないので(藩政上)大した問題になることではない」とされている。また、「当時誉の将と世以(て)沙汰す」ともされている。
日記
17歳(万治元年(1658年))から54歳(元禄8年(1695年))で死去するまで自身が書き残した『(大和守日記)』には、藩主の仕事の他、お家騒動、鷹狩りや観劇などの記録が書き記されている。
官歴
系譜
関連書籍
映画
脚注
外部リンク
- 大和守日記