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松平 慶倫(まつだいら よしとも)は、江戸時代後期の大名。美作津山藩9代(最後の)藩主。官位は正四位下・左近衛中将、(三河守)。のち津山知藩事。
生涯
文政10年(1827年)閏6月5日、7代藩主・松平斉孝の四男として誕生した。幼名は龍次郎、温之助、淵之丞。初名は有倫。弘化4年(1847年)9月、8代藩主・松平斉民の養子となる。同年12月1日、12代将軍・徳川家慶に御目見する。嘉永元年(1848年)1月23日、従四位上・左少将・三河守に叙任される。後に正四位下・左中将にまで昇進する。
安政2年(1855年)5月3日、斉民の隠居により家督を相続する。文久3年(1863年)、国事周旋の内勅を受け上京し朝廷と幕府との調停にあたり、八月十八日の政変以降は藩内の尊皇攘夷派の排斥をおこなった。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により津山知藩事に任ぜられる。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により免職となる。同年7月26日、45歳で死去。法号は慎由。墓所は岡山県津山市八子の愛山松平家墓所の愛山廟。
しかし、明治政府には死亡を隠し、公的には以下のように届け出た。
- 「明治4年(1871年)8月10日、隠居し、養子(康倫)(実父・斉民)に家督を譲る。同年8月12日、死去。」
その後、康倫は明治11年(1878年)に没し、康倫の弟松平康民が津山松平家の家督を相続した。