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東恩納寛量

東恩納 寛量(ひがおんな かんりょう、1853年4月17日嘉永6年3月10日) - 1915年)は、那覇手中興の祖といわれる、明治期を代表する唐手(現・空手)の大家である。

東恩納寛量

経歴

生い立ち

東恩納寛量は、1853年4月17日(新暦)、那覇西村の薪売り商人、東恩納寛用の四男として生まれた。唐名は慎善煕、童名は真牛。父・寛用は慶良間から山原船という小舟で薪を運搬して、那覇で薪を売ることを生業としていた。寛量の後裔によれば、東恩納家は士族・慎氏の支流(分家)であり、父・寛用はその九世にあたるという。

那覇手修行時代

東恩納は家計を助けるため10歳頃から家業を手伝っていたが、一説では1873年(明治6年)、20歳(17歳とも)の頃、那覇手の新垣世璋1840年 - 1920年)に唐手を師事したとされる[1]。新垣が久米士族以外は門外不出であるはずの那覇手を東恩納に伝授した理由は不明だが、新垣家が東恩納家の得意先であり、薪を売りに家に出入りする東恩納を見て、並々ならぬ素質を感じたからともいわれている。東恩納は新垣のもとで3年間ほど那覇手を師事した。

ただし、剛柔流東恩流にはいわゆる新垣派の型は伝承されておらず、また宮城長順の「唐手道概説」(1936)にもこれについての記載がないので、真偽のほどは不明である。東恩納は少年の頃より沖縄手は修行していたが、中国拳法は門外不出ゆえ大家に断られて修行できなかったとする説もある(宮里栄一説)[2]

また、新垣に師事した後、新垣が通事(通訳)として中国へ渡航することになったため、湖城流の湖城大禎に一時期預けられ、そこでも修行したとの説もある[3]。ただし、東恩納は湖城とサンチンを巡って激論を繰り広げたとも言われ(いわゆるサンチン裁判)、この説とは矛盾する逸話も伝えられている。

中国武術修行時代

東恩納は、1877年(明治10年)、20歳の頃に中国()への渡航を果たした(長嶺将真説)。他にも24歳(宮里栄一説)等がある。東恩納が中国へ渡航した理由は、拳法修行説、出稼ぎ説、頑固党(中国派)の琉球王族、義村御殿義村朝明の密使説など諸説がある。いずれにしろ、東恩納は渡航した直後は、当地で薪売りをしていたとも、薬売りをしていたとも言われるが、やがて中国武術の大家ルールーコウ(トゥルーコウとも)に師事することになった(ワイシンザンに師事したとの説(安里安恒)もあり)。

最初、言葉が不自由だったこともあり、また当時の武術修行の常として、東恩納はなかなか本格的な武術の教授をしてもらえなかった。歩法と呼吸法の稽古ばかりを4、5時間もさせられ、他は師の雑用ばかりだったという。しかし、あるとき起こった大洪水のおり、東恩納は命がけで師匠の家族を救ったことでルールーコウの信頼を得、師から本格的な武術教授を受けることになったといわれる。その後、東恩納はルールーコウの中師匠(師範代)にまでなるほど、その技量を認められるようになった。

東恩納が中国に滞在していた期間については、複数説があり結論が出ていない。15年説(長嶺将真など)、3年説(宮城長順、比嘉佑直、知花朝信、東恩納寛量の孫など)、さらには往復の渡航期間を除くと1年4ヶ月が実質の滞在期間だったとする研究者もいる(渡嘉敷唯賢)。ほかに8年説、10年説、16年説、30年説(渡口政吉)[4]などもある。また、渡航も複数回説があるが、当時、中国への渡航は厳しい管理下にあり「脱清」は容易でなかったことから、これには否定的な見解があり結論は出ていない。それゆえ、東恩納寛量が帰国した歳も、20代から40代まで様々な説がある。

帰国以降

帰国後、東恩納は那覇で道場を開いたが当初は思うように弟子が集まらなかったという。文献上確認できる最初の弟子は、義村御殿義村朝義1866年1945年)で、22、3歳の頃から東恩納寛量に師事したとのことであるから、数え年とすれば1887年(明治20年)頃の入門となる[5]。その後、1902年(明治35年)頃に、許田重発宮城長順ら、のちの高弟となる若者たちが相次いで入門した。東恩納の弟子には、他に摩文仁賢和、比嘉世幸、遠山寛賢などがいる。1915年(大正4年)、東恩納は持病の気管支喘息が悪化して弟子達が見守る中、死去した。

伝系の問題

以前は剛柔流の型は宮城長順が創作したものを除いては、すべて東恩納寛量が中国で習得して沖縄に持ち帰ったものと考えられていたが、近年では様々な疑問が提起されている。

  • 「寅ぬ御冠船」の冊封使祝賀会プログラムの発見
1867年尚泰王の冊封が終わったことを祝うため、那覇久米村の士族が祝賀会を開催した。そのときのプログラムが戦後出版された(『島袋全発著作集』)。その中に「壱百〇八歩」「ちしやうきん」「十三歩」という型の演武の記録があり、剛柔流に伝わる同名・類似の型が東恩納の渡清以前にすでに沖縄にあったことが証明され、これらの型は東恩納が中国から持ち帰ったという従来の説が疑わしくなった。

東恩納寛量はペッチューリンを指導したのであってスーパーリンペイは指導していない。 チソーチンは那覇の湧田の崎山喜徳が得意とした。崎山は劉衛流の開祖仲井間憲里の兄弟弟子であり、その流れは国吉真吉を経て沖縄拳法に受け継がれている。

  • ルールーコウという名は、中国にはない
ルールー(如如)という発音は北京語で、東恩納が学んだとされる福建省の人々は、このような発音をしない。リューリュー(量量)だと、東恩納寛量自身を指すことになる。そもそも中国では、成人男子に対して、こうした重畳詞で呼ぶことはあり得ない。

しかし、子供が親しい間柄で量量哥(リューリューコー、量兄)と呼んだことも考えられる。この事から家族救出の逸話とは矛盾しない。


  • 源流武術が存在しない
日中国交回復後、何十回と現地へ調査団が派遣されたが剛柔流の源流となる門派が特定されていない。これも、白鶴拳は断絶の危機にさらされ、劉銀山がかろうじて伝えた。現在の白鶴拳の套路は近年の再編である。
  • 武器術が併伝されていない
沖縄の空手と違って、中国武術では武器術を併伝するのが普通である。師範代まで昇って武器術を修行してきていないというのはあり得ない。

こうした疑問点から、近年では東恩納寛量はそもそも中国へ渡航していないか、渡航していたとしても中国拳法のごく初歩を修行してきただけで、伝えられる経歴の大半は信憑性の乏しいものと見なす研究者が増えてきている。

以上の観点は剛柔流との比較や、近年の訪中調査の結果である。しかし、東恩流のペッチューリンでは白鶴拳と同じ手形を用いるし、中国拳法でいう後掃腿や、膝を伸ばした蹴上げが存在する。これらの技術から中国拳法由来の確証は形成される。しかし、体系だった技術であったのかは疑問である。

脚注

  1. ^ 長嶺将真『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社、1976年、96頁。 
  2. ^ 宮里栄一「沖縄剛柔流空手道協会」『精説沖縄空手道の歴史』上地流空手道協会、1977年、747頁。 
  3. ^ 東京大学空手部六十年史記念号編集委員会編『東京大学空手部六十年史』収録の寄稿文、藤原稜三「近代空手道の先駆者 三木二三郎と『拳法概説』」(178頁)を参照。
  4. ^ 渡口政吉『空手の心』角川書店、1986年、103頁。ISBN (4048520296)。 
  5. ^ 図録「義村朝義展」沖縄県立博物館、1981年。

参考文献

  • 岩井作夫『古伝琉球唐手術』愛隆堂 (ISBN 4750202037)
  • 金城昭夫『空手伝真録』チャンプ (ISBN 4902481359)
  • 長嶺将真『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社 (ISBN 4404013493)
  • 『月刊空手道』2005年9月号 福昌堂
  • 渡久地雅昭「空手の歴史、その信憑性を考察する」『JKFan』2006年10、11、12月号、2007年5、7月号、チャンプ

関連項目

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