この記事は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2017年3月) |
生涯
武吉の父
義忠について「閥閲録(巻22村上図書)」では、義雅早世後の義益と武吉の家督争いについて触れる中で、武吉を「掃部頭義忠カ子、義忠ハ義雅カ弟也」と記しているが、これ以外の情報は無い。「閥閲録」より後に編纂された「譜録(村上図書)」においても、武吉を義忠の子としているが、家督争いでは武吉の叔父・隆重(義忠の弟)が幼い武吉の代わりに軍を率いたとしている[2]。
なお義忠の子武吉は、天文2年(1533年)に生まれている[注釈 1]。
村上掃部助
天文10年(1541年)頃、能島村上氏は大内氏と敵対しており、同年1月に厳島沖で大内水軍と交戦し、6月から7月にかけては逆に能島など芸予諸島の拠点に攻め込まれていた[4]。
そんな中、大内氏に味方する「村上掃部助」という人物が史料にみえる。天文11年(1542年)4月、杉隆宣、青景隆著、弘中隆兼ら大内氏奉行人は(神代兼任)に対して、敵方の攻撃を受けている伊予国中島の棚林要害への加勢を指示。渡海の段取りは、小原隆名[注釈 2]と村上掃部助に相談して進めるよう伝えている。この掃部助を、義忠に比定する説がある[5][注釈 3]。