生涯
(李亮)(李虎の八男)の次男。幼くして孤児となり、兄の李神通に謹事した。大業13年(617年)、李淵が太原で起兵したとき、長安にいた李神符は衛文昇に逮捕された。長安が平定されると、光禄大夫に任じられ、安吉郡公に封じられた。武徳元年(618年)に唐が建てられると、(襄邑郡)王に封じられた。武徳4年(621年)、并州総管に転じた。
突厥の頡利可汗が辺境を侵すと、李神符は出兵して汾水の東で突厥と戦い、勝利を挙げた。また沙河の北で戦い、乙利達官を捕らえ、可汗の乗馬と鎧を戦利品として得た。このため太府卿となった。武徳9年(626年)、揚州大都督となり、揚州の州府を丹陽から江都の故郡に移転した。貞観初年に宗正卿となったが、足の病のため辞職し、太宗の見舞いを受けて羊酒を賜った。小輿に乗って紫微殿に入ることを許可された。まもなく開府儀同三司となった。永徽2年(651年)に世を去り、司空・荊州都督の位を追贈され、(献陵)に陪葬された。諡を恭とされた。
子女
- 李仁鑑(広宗郡公)
- 李徳懋(臨川郡公、刑部尚書)
- 李義範(広川郡公)
- 李文暕(魏国公、幽州都督、垂拱年間に藤州別駕に左遷され、処刑された)
- 李文挙