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李異

李 異(り い、生没年不詳)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけての武将、益州の豪族。趙韙・劉璋孫権配下。

事跡

姓名 李異
時代 後漢時代 - 三国時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 〔不詳〕
職官 〔不詳〕
爵位・号等 -
陣営・所属等 趙韙→劉璋→孫権
家族・一族 〔不詳〕

生涯

建安5年(200年)、趙韙は民の怨嗟の心を利用して、州内の豪族と手を結び、劉璋に謀反を起こした。劉璋は東州兵の奮戦により趙韙の軍勢は撃退され、これを追撃して江州を攻撃した。結局趙韙は配下の龐楽・李異に裏切られて斬られ、反乱は終結した。その後、劉璋に加入した。

なお、建安16年(211年)、張松は劉備を益州に招き入れる目的で劉璋に進言した際に「龐羲・李異は自らの軍功に驕り、外部と手を結ぼうとしている」と述べているが、張松が上記の讒言をしたのかは不明である。

建安19年(214年)、益州劉璋から劉備に寝返った法正が劉璋に送った書面によれば、孫権が李異・甘寧らを後続部隊として派遣した、としている。もっとも、この文面は劉璋に降伏を迫るためのものであり、実際に孫権がこのような軍事行動を企図したかは不詳である。

建安24年(219年)末から建安25年(220年)にかけて、荊州制圧に従事していた陸遜の命を受けた李異は、謝旌と共に3千の兵を率い、蜀漢の部将である詹晏・陳鳳を攻撃した。この時、李異は水軍を、謝旌は歩兵を率いて要害を占め、詹晏・陳鳳を撃破し、陳鳳を生け捕りとした。さらに房陵太守鄧輔と南郷太守郭睦にも攻撃を仕掛け、これらも撃破した。

黄初2年(221年)7月、劉備が自ら呉討伐に向かった時には、李異は劉阿と共に陸遜指揮下で巫・秭帰に駐屯していた。蜀将呉班馮習を、李異は劉阿と迎撃したが、ここでは敗退した。しかし翌黄武1年(222年)6月に、陸遜が劉備を撃破すると、永安に逃げた劉備を追い、李異と劉阿は南山に駐屯した。結局、劉備と孫権の間で、まもなく和睦が成立し、休戦となった。

これ以後、李異は史書に登場しない。

劉璋配下との関係について

なお、劉璋配下にも、李異と同姓同名の人物がいる。この人物は、元は劉璋に仕えていた趙韙の配下で、いわば陪臣にあたる。東州兵(南陽・三輔から益州に移住していた兵)への益州人の不満を利用して趙韙が反乱を起こすと、李異も当初はこれに従った。しかし、劉璋や東州兵の反撃で趙韙が劣勢となると、李異は僚将の龐楽と共に趙韙を裏切り、これを斬った。建安16年(211年)、益州別駕従事張松が劉璋に進言した際に、龐羲・李異が自らの軍功に驕り、外部と手を結ぼうとしていると述べた。

本記事の李異と、この劉璋配下の李異とは、同一人物の可能性もあるが、それを裏付ける史料はない[1]。なお小南一郎井波律子らが訳したちくま学芸文庫版は、この2人を別人とみなしている。

物語中の李異

小説『三国志演義』では、謝旌と共に孫桓配下の大将として登場する。宜都で蜀軍を迎撃した際に、蜀将張苞に敵わず敗走する謝旌を救おうと、李異は金鍍金の鉞を振るって張苞に挑む。李異も苦戦するが、僚将の譚雄の矢に張苞の馬が射倒され、形勢は逆転する。しかし、李異が落馬した張苞を討ち取ろうとした瞬間、その場に駆けつけた蜀将関興の薙刀の一閃を受け、李異は一刀両断されてしまう。

なお、李異も謝旌も、孫桓に属していたとの記述は史書に見当たらない。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 劉璋支配下の益州から呉の配下となった人物には、他にも甘寧・襲粛らがいるので、呉配下の李異と劉璋配下の李異が同一人物である可能性は完全には否定できない。もし同一人物の場合、上記の法正が劉璋に送った書面に出てくる李異と甘寧はどちらも劉璋と関係がある人物ということになる。

参考文献

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