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李富春(り ふしゅん、リー・フーチュン、1900年5月22日 - 1975年1月9日)は中華人民共和国の政治家。党務では中央書記処書記、中央政治局常務委員会委員を歴任。中央政府においては国務院副総理、国家計画委員会主任を歴任。夫人は、中華全国婦女連合会主席を務めた(蔡暢)である。
李富春 | |
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生年月日 | 1900年5月22日 |
出生地 | 清、湖南省長沙市 |
没年月日 | 1975年1月9日 |
死没地 | 北京市 |
所属政党 | 中国共産党 |
配偶者 | 蔡暢 |
内閣 | 周恩来内閣 |
在任期間 | 1954年9月27日 - 1975年1月9日 |
国家主席 | 毛沢東 劉少奇 |
経歴
1900年5月22日、湖南省長沙に生まれる。長沙では幼少期と学生時代をすごし、長郡中学から1919年に毛沢東らが組織した留仏苦学生の一員としてフランスに渡る。1922年に中国共産党パリ支部にて中国共産党に加入し、1923年に蔡暢と結婚する。1925年にソビエト連邦に渡り学び、同年中国に帰国する。1926年、国民革命軍の北伐に加わり第2軍党代表兼政治部主任を務めた。国共分裂後、江西省の中国共産党根拠地に入り省委員会代理書記を務める。その後(反包囲討伐戦争)、長征、日中戦争、第2次国共内戦に参加し、共産党が中国本土全体の権力奪取するのに重要な貢献をした。
1934年、長征に加わり紅軍総政治部副主任、紅軍第3軍団政治委員を務めた。延安に到達後は陝甘寧辺区党委員会書記となる。日中戦争期は、中国共産党中央秘書長、中国共産党中央組織部副部長、財政経済部部長、弁公庁主任を歴任する。第2次国共内戦期は、中国共産党中央西満分局書記、中国共産党中央東北局常務委員、副書記、(東北人民政府)副主席、東北軍区副政治委員を歴任する。
中華人民共和国成立後、政務院政務委員、(政務院財政経済委員会)副主任、(中央人民政府重工業部)部長、国家計画委員会副主任、主任を歴任する。1954年9月29日、国務院副総理に任命[1]。第2期から第4期まで全国人民代表大会代表に選ばれている。
党務では、1956年9月28日の第8期1中全会において中央政治局委員に選出され[2]、1958年には第8期中央書記処書記を兼務した。1966年から第8期中央政治局常務委員会委員を務めたが、第9期、第10期は、1960年に李が提案した経済の調整政策(八字方針)が批判され選ばれなかった。中央委員会委員だけは第7期から第10期まで務めた。
文化大革命では、李が提案した経済調整政策が実権派(走資派)と見なされ政治弾圧を受け迫害された。1975年1月9日北京にて病没する。75歳であった。
評価
建国初期において中央政府が経済開発計画(第一次五カ年計画)を立てる上で重要なポストを担った。第一次五カ年計画では急激な社会主義化(農業の集団化など)を進めた。高崗自殺後、国家計画委員会主任に昇格し、その後も計画経済の立案指導にあたったが、第二次五カ年計画は毛沢東が深く介在し農業・工業の大増産を企図し実施された。いわゆる大躍進政策である。その結果は大失敗に帰し、多くの餓死者を出すこととなり毛の失脚に繋がった。国民経済の大幅な後退からの復興を狙い、1960年8月、李富春は国民経済調整提案(八字方針)を提案した。しかし文化大革命期には左派からその経済政策が実権派(走資派)的であり反革命的であるとして、政治弾圧を受けた。
脚注
参考文献
- 中国研究所(編) 『新中国年鑑1964』 (極東書店)、1964年。