生涯
慶長元年4月14日(1596年5月11日)、徳川家康の家臣・本多忠政の長男として生まれる。母は松平信康の次女・妙高院(熊姫・ゆうひめ)。
祖父の忠勝が慶長6年(1601年)に伊勢桑名に入部すると、忠政と共に桑名に移った[1]。
長じるに従い、忠刻は眉目秀麗で優雅さを持ち、誰もが振り返るほどの美丈夫だった[2]。
大坂夏の陣では忠政と共に出陣し、慶長20年5月7日(1615年6月3日)の道明寺の戦いにも参加して敵の首級を挙げた[2]。
戦後の元和2年9月29日(1616年11月8日)、将軍・秀忠の長女で豊臣秀頼の正室だった千姫[注釈 1]と婚姻した[3]。この婚姻に関しては大坂落城後の7月に千姫が江戸に戻る途中、桑名の七里渡しの船中でたまたま忠刻を見初めたのがきっかけになったという逸話がある[1]。また、家康が臨終の際に政略結婚の犠牲とした孫の千姫のためを考えて、忠刻や熊姫に婚姻を命じたとする逸話もある[2]。
元和3年(1617年)、千姫の化粧料として父・忠政とは別個に新知10万石を与えられて姫路に移った[3]。
剣術を好み、兵法者・宮本武蔵を迎えて師事し、自家の家士をしてその流儀を学ばせた。また武蔵の養子・三木之助を小姓として出仕させ、側近とした[3]。
千姫との間には元和4年(1618年)に長女・勝姫(池田光政正室)、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれたが、元和7年(1621年)に幸千代は3歳で早世した。
寛永3年5月7日(1626年6月30日)に結核のため死去した。享年31[3]。なお、23歳の宮本三木之助と21歳の岩原牛之助が忠刻の供をして殉死した[3]。
忠刻の死により、弟・政朝が世嗣となった。
官位位階
系譜
系図・子孫
最後の将軍・徳川慶喜は忠刻の女系子孫である。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 郡義武『桑名藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2009年11月。