略歴 朝倉氏7代当主・朝倉孝景(英林)の子として誕生した。同腹の弟に、この兄の死後に同じ仮名と諱を名乗った小太郎教景(宗滴)がいる。朝倉家には他にも教景を名乗った人物が多数いるため、この人物はしばしば法名の以千宗勝を併記して区別される。
孝景と正室桂室永昌の間に生まれた嫡系の男児で、叔父である光玖の養子(猶子)となり、庶系である兄の景総より常に上席として扱われた。景総はこれを恨みに思い、文明16年(1484年)7月13日に相撲場において教景を殺害したという。
曽祖父教景以降3代にわたる朝倉宗家当主の仮名「小太郎」を称し、さらに朝倉家にとって由緒ある諱「教景」を名乗っていることから、以千宗勝あるいは宗滴の2人の教景こそが英林孝景の本来の家督継承者であったとする見方がある[2]。
脚注 - ^ 文明3年(1471年)から永禄7年(1564年)までの朝倉氏の合戦記録である「当国御陳之次第(当国御陣之次第)」に文明12年(1480年)芝原合戦に19歳で大将として出陣したとある。参考文献「朝倉孝景」p.227、「越前朝倉氏の研究」p.269、同p.530-32(「当国御陳之次第」全文)などに記述。
- ^ 水藤『朝倉義景』p.31-32。
出典 - 松原信之『越前朝倉氏の研究』(吉川弘文館) (ISBN 978-4-642-02876-9)
- 佐藤圭『中世武士選書23 朝倉孝景』(戎光祥出版) (ISBN 978-4-86403-126-4)
- 水藤真『朝倉義景』(人物叢書・吉川弘文館、1986年) (ISBN 4-642-05060-4)
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