昭和40年7月豪雨(しょうわ40ねん7がつごうう)とは[1]、1965年7月に梅雨前線の影響で発生した豪雨災害のことである[2]。
概要
1965年6月30日から7月3日にかけて、前線により九州中部で大雨となり、20人が死亡した[3]。さらに、同年7月21日から7月23日にかけては中国地方と中部地方で大雨となり、32人が死亡した[3]。
一連の豪雨により全国で死者・行方不明者が69人となり[3]、地域によっては戦後最大級の洪水被害となった[2]。熊本県(特に人吉地方や球磨川流域など)での被害が特に大きく[4][2]、その点では55年後の令和2年7月豪雨に似ていた[5]。ただし、雨量は令和2年7月豪雨の方が多かったと考えられている[6][7]。
脚注
- ^ 岩船昌起『令和2年7月豪雨における熊本県球磨村での避難行動』CRID 1391975276380446208
- ^ a b c “気象・出水の概要”. 令和2年7月豪雨 球磨川水害伝承記 ~後代に残す記録~. 2023年3月19日閲覧。
- ^ a b c 理科年表 2021, p. 352.
- ^ 昭和40年洪水による人吉市街部の浸水の状況について (PDF)
- ^ 自己組織化マップを用いた南九州で豪雨をもたらした気象場パターンの分類 (PDF) CRID 1390571948061129984
- ^ 球磨川堤防調査委員会 報告書 (PDF)
- ^ “【歴史・教訓】球磨川氾濫「記録上、最大の浸水深」 熊本大調査「昭和40年7月洪水」上回る”. 2023年3月19日閲覧。