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生涯
宇喜多氏家臣・明石全登の子として生まれ、備前国和気郡(岩戸城)、2,000石を知行し、鉄砲足軽40人を率いた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは宇喜多秀家に従って父・全登と共に参戦したが敗北。戦場を離脱した後は備中国足守に隠棲した。
慶長19年(1614年)の(大坂冬の陣)と翌慶長20年(1615年)の(大坂夏の陣)に際しては、父の全登と子の宣行と共に豊臣方として参戦したが、敗れて再び潜伏することとなる。3年後の元和4年(1618年)に江戸幕府から赦免されたものの、景行はその後病没した。
子の宣行は大坂の陣で討死したため、備前国和気郡吉永の土豪である(武元正高)を娘婿として迎えて家督を継がせた。その子孫は江戸時代には武元姓を名乗って、代々名主や大庄屋を務め、明治維新後に明石姓に復した。