日野 資康(ひの すけやす)は、南北朝時代の公卿。藤原北家真夏流日野家、(日野時光)の次男。官位は従一位・権大納言。「裏松」を家号として裏松 資康(うらまつ すけやす)と称した。室町幕府5代将軍・足利義量は外孫にあたる。
経歴
天授4年/永和4年(1378年)3月、正四位上左大弁兼蔵人頭(頭弁)から左大弁兼参議に進み、同年12月13日に従三位・権中納言に任ぜられる。2年後に按察使を兼任。弘和元年/永徳元年(1381年)に正三位を経て従二位に叙され、翌弘和2年/永徳2年(1382年)には後円融院の院執権になる。弘和3年/永徳3年(1383年)には按察使を辞して代わって左衛門督・検非違使別当を兼ねる。
元中元年/至徳元年(1384年)に正二位に叙される。元中3年/至徳3年(1386年)1月にに院執権を辞し、同年11月に権大納言に任ぜられる。元中5年/嘉慶2年(1388年)に一旦権大納言を辞しているが、元中7年/明徳元年(1390年)に再任される。8月に病が重く、同月9日に従一位に叙されるが、翌10日に死去した。
妹・業子と娘・康子が3代将軍・足利義満の御台所となったことが急激な昇進につながり、同じく娘・栄子も資康の没後に4代将軍・足利義持の御台所となり、5代将軍・足利義量を生んでいる。日野家の家督は弟・(資教)が継ぎ、資康は裏松家を名乗ったが、文安5年(1448年)に玄孫・裏松勝光(8代将軍足利義政御台所日野富子の兄)が断絶した宗家を継承して子孫は日野家を家名としたことから、後世においては資康以降の裏松家の人々も「日野」と呼ばれることになる。
系譜
出典
- 野島寿三郎 編『公卿人名大事典』(日外アソシエーツ、1994年) (ISBN 978-4-8169-1244-3) P107.
- 橋本政宣 編『公家事典』(吉川弘文館、2010年) (ISBN 978-4-642-01442-7) P412・417-418.