日野 有光(ひの ありみつ)は、室町時代前期の公卿。藤原北家真夏流日野家、権大納言・(日野資教)の子。官位は従一位・権大納言。
経歴
足利義満の縁戚でありその寵愛を受け、後に娘の日野光子は称光天皇の妃となった。応永24年(1417年)に院執権となり、応永28年(1421年)権大納言となるが、応永32年(1425年)に院執権と権大納言を両方辞し、出家して祐光と号す。
応永34年(1427年)に足利義持と日野家の確執が原因で室町殿より追放[1]され、続いて称光天皇が男子を残さずに没して皇統が伏見宮系統に移ると、政治的に不遇となった。有光は所領没収となり、家督と所領は有光の弟秀光が代わって継いだが、永享4年(1432年)に彼は死去し、日野流に属する広橋家の(広橋兼郷)の子の(春龍丸)が跡を継いだ。しかし春龍丸もその年のうちに死去し、結局日野家の家督と所領は兼郷に与えられ、兼郷は一時「日野中納言」を名乗っている。
失意の中にいた有光は子の(資親)とともに通蔵主、金蔵主、尊秀王、伊勢楠木氏の(楠木正威)ら南朝復興を目指す勢力(後南朝)と結んで、嘉吉3年(1443年)9月23日、嘉吉の乱の後の京都の動揺に乗じ、数百人の兵と御所に乱入(禁闕の変)、三種の神器のうち神璽と宝剣を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て籠った。しかし畠山持国らに攻められ、有光と金蔵主は討ち死にした。資親は捉えられ、六条河原で斬罪にされた。
天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野家は、これで一旦断絶する。
官歴
- 応永18年(1411年)参議。
- 応永21年(1414年)権中納言。
- 応永24年(1417年)院執権。
- 応永28年(1421年)権大納言。
- 応永32年(1425年)従一位。権大納言と院執権を辞す。
系譜
- 父:日野資教
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:日野資親
- 女子:日野光子