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日野 晴光(ひの はるみつ)は、戦国時代の公卿。藤原北家庶流日野家26代・日野内光の子。官位は正二位・権大納言。日野家27代当主。
生涯
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徳大寺実淳の次男であった父・内光は嗣子のなかった(日野政資)の養子となって日野家を継ぎ、初めは11代将軍・足利義高(義澄)の偏諱を受け高光(たかみつ)、澄光(すみみつ)を名乗っていた。子の晴光も同じように慣例に倣い、義澄の子で12代将軍・足利義晴より偏諱を受けた。
幕府の重臣で内談衆に任じられていた(摂津元造)の養女を正室に迎え、代々の日野家当主同様、幕政にも影響力を持った。
大永7年(1527年)、桂川原の戦いで父・内光は縁戚関係にあった細川高国側について敗北し、敗走する途中で討ち死にする。晴光自身まだ幼少であったが、これを受けて家督を継いだものと思われる。
天文24年(1555年)9月18日、薨去。享年37。実子・晴資も早世しており、一時日野家は断絶状態となるが、広橋国光の子である輝資によって再興された。