斯波 淳六郎(しば じゅんろくろう、文久元年2月24日[1](1861年4月3日) - 昭和6年(1931年)1月2日[2])は、日本の内務官僚。錦鶏間祗候。日本法律学校(現在の日本大学)創立者の一人[2]。
経歴
加賀国金沢藩家老津田正行の三男として生まれ、斯波蕃の養弟となった[2]。1883年(明治16年)、東京大学法学部を卒業[3]。卒業後は研究生となり、さらに文部省留学生としてベルリン大学で国法学、行政法、国際法を学んだ[1]。1888年(明治21年)に帰国し、帝国大学法科大学教授となる[3]。翌年2月、法制局参事官を兼ね[4]、7月には教授の兼職を解かれ法制局専任となった[3]。1894年(明治27年)からは恩給局審査官を兼任した[1]。1898年(明治31年)、内務省社寺局長に転じ、1900年(明治33年)からは宗教局長を務めた[3]。1913年(大正2年)、官制改正により廃官[3]。1914年(大正3年)4月7日、錦鶏間祗候となった[5]。1915年(大正4年)7月、内務省神社局長に就任したが、10月に退官した[2]。