文室 高島(ふんや の たかしま)は、奈良時代の皇族・貴族。始め高島王を称するが文室真人姓を与えられて臣籍降下。大納言・文室大市(大市王)の子。官位は従四位下・(下野守)
経歴
天平感宝元年(749年)従五位下に叙爵。天平勝宝4年(752年)父・大市王ら一族と共に文室真人姓を与えられて臣籍降下する。天平宝字7年(763年)内礼正に任ぜられる。
神護景雲4年(770年)称徳天皇の崩御後間もなく(備中守)に任ぜられる。宝亀4年(773年)従五位上に叙せられると、のち造宮大輔・内匠頭・宮内大輔と光仁朝後半は京官を歴任する。
天応2年(782年)下野守として再び地方官に転じるが、延暦4年(785年)正五位下、延暦5年(786年)正五位上、延暦9年(790年)従四位下と、桓武朝前半に順調に昇進を果たしている。
官歴
『続日本紀』による。
- 天平感宝元年(749年) 4月14日:従五位下
- 天平勝宝4年(752年) 9月22日:臣籍降下(文室真人)
- 天平宝字7年(763年) 正月9日:内礼正
- 神護景雲4年(770年) 8月22日:(備中守)
- 宝亀4年(773年) 正月7日:従五位上
- 宝亀5年(774年) 3月5日:造宮大輔
- 宝亀8年(777年) 正月25日:内匠頭
- 宝亀10年(779年) 11月28日:宮内大輔
- 天応元年(781年) 12月23日:山作司(光仁上皇崩御)
- 天応2年(782年) 閏正月17日:(下野守)
- 延暦4年(785年) 正月7日:正五位下
- 延暦5年(786年) 正月7日:正五位上
- 延暦9年(790年) 2月27日:従四位下。閏3月11日:山作司(藤原乙牟漏崩御)