生涯
襄公12年(前766年)、襄公が薨去したため、文公が立って秦君となった。
文公元年(前765年)、西垂に住んだ。
文公3年(前763年)、兵700人を引き連れて東方で狩りをした。
文公4年(前762年)、(汧水)・渭水の合流地点(秦)に行き、「昔、周の孝王が我が祖先の秦嬴をこの地に封じられたため、のちに諸侯になることができた」と言って吉凶を卜したところ、吉とあったので、邑をここに営んだ。
文公10年(前756年)、初めて鄜畤(ふじ)[1]を作り、三牢の犠牲を供えて祭った。
文公13年(前753年)、初めて史官を置いて記録をとらせた。民の同化する者が多かった。
文公16年(前750年)、兵を率いて戎を討ち、戎を敗走させた。その余民を収めて自国の民とし、岐山を境として岐山以東を周に献上した。
文公20年(前746年)、初めて三族を罰する法律を制定した。
文公23年(前743年)、南山の大梓・豊・大特[2]を討伐した。
脚注
参考資料
- 『史記』(秦本紀第五)