概要
半国山から東南2kmほどの地点にあり、標高538m、比高240mの尾根上に位置する[1]。東に亀岡盆地、南に能勢方面が見渡せるが、城のある場所としては不自然とされる[1]。
削平地には自然石が多く削平状態は悪いが、自然石の間を曲輪に上手く活用している[1]。標高490mの地点に水場があり、城の南の谷間には虎渓谷(こけたに)千軒と呼ばれる中世の寺院跡がある[1]。
城主は(波多野氏)または森氏とされているが[1]、『丹波志桑田記』や『桑下漫録』は数掛山城主を波多野与兵衛とし、またこの周辺の上村荘は波多野与兵衛尉秀親が支配していた[4]。天文22年(1553年)に三好長慶家臣の松永久秀・長頼兄弟らが「波多野与兵衛尉方城」(『細川両家記』)を攻め、秀親はその撃退に成功しているが、この城は数掛山城を指すものと考えられる[4][5]。
波多野秀親の子孫が建てたという「波多野勘兵衛尉宗春墓碑」の碑文によると、明智光秀による丹波攻めの際に、数掛山城主(墓碑によると秀親)とその子らは亀山で自害させられたという[6]。
脚注
- ^ a b c d e f g h 高橋成計 著「城郭データ」、八上城研究会 編『戦国・織豊期城郭論―丹波国八上城遺跡群に関する総合研究―』和泉書院〈日本史研究叢刊12〉、2000年、307頁。ISBN (4-87088-996-X)。
- ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編「本梅町西加舎」『角川日本地名大辞典 26 京都府 下巻』角川書店、1982年、501頁。
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年、1077頁。
- ^ a b 福島克彦「丹波波多野氏の基礎的考察(下)」『歴史と神戸』第219号、41頁、2000年。
- ^ 福島克彦『畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館〈戦争の日本史11〉、2009年、113頁。ISBN (978-4-642-06321-0)。
- ^ 石野瑛『横浜旧吉田新田の研究』武相考古会〈武相叢書 第6編〉、1936年、89 - 90頁 。
外部リンク
- “数掛山城跡”. 亀岡市公式ホームページ (2021年7月12日). 2022年1月4日閲覧。