概要
本尊は被爆者遺族より奉納された聖観音菩薩。山号は嶺松山。歓喜寺と称する。
1593年に開山。戦前は平和公園前にあったため原爆にて焼失。戦後同地にて再建。1967年に現在の地に移転。
広島新四国八十八ヶ所霊場24番霊場札所に指定されている。
縁起
文禄2年(1593年)に秀栄和尚が毛利公より寺領を賜り旧・木挽町(現・中島町:平和公園前)に開山。
「木挽町」は、戦前、「材木町」「天神町」という町と並び、現在の平和公園前・平和大通りあたりにあった。その町名が表すようにこの界隈は戦前、木材問屋や材木店が数多く商いをしていた。 また、現在の土橋・堺町界隈には多くの商店や問屋もあり、県北や瀬戸内海から多くの材木や商品が船によって搬入搬出され、当時は広島の物流拠点でだった。
そのため、持明院は海上交通安全や商売繁盛・家内安全・諸願成就などの祈願所として当時、鎮守「金毘羅大権現」ならびに「歓喜天」が多くの篤い信仰を得ていたそうで、遠くは周防まで及んでいた。
移転前は爆心地から500mほどの場所にあったため、原爆投下により全て焼失。
兵役より復員してきた当時の住職が檀信徒の協力を得て、戦後まもなくに同場所にて本堂を再建し、復興。
しかしながら、昭和42年(1967年)、市街地の都市開発などにより、復興を遂げた都会の喧騒から、より閑静な信仰の場を求め、現在の地(東区戸坂)へ移転した。
御本尊
原爆で亡くなられた広島市立高等女学校の先生生徒の遺族の方々により奉納された聖観音菩薩が御本尊。
犠牲となられた先生生徒679柱の御霊が聖観世音菩薩の大慈大悲に包まれ「永遠に安らかに」との悲願が込められている。
広島市立高女原爆慰霊碑
戦時中、建物疎開作業のために、市内に学徒動員されていた旧広島市立高等女学校の先生生徒合わせて679名が原爆の犠牲となった。
生徒たちが被ばくした場所はかつて持明院があった場所近くであり、当時の住職が当山の再興中に犠牲者の遺骨を発見。持明院にて安置供養した縁で、広島市女原爆遺族会により追悼碑が建立された。
平和記念公園南側の平和大橋のたもとには、もう一つの慰霊碑「広島市立高女原爆慰霊碑」が広島市女原爆遺族会によって建立されている。
碑文
教え子を水槽に入れ、自は 掩ひとなりて逝きし師のあり、万歳の声をいまわに倒れゆきし 清き乙女の赤き血の色、ゆきゆきて帰らぬ人の面影をしのびて夜半の古枯をきく 昭和二十六年八月六日 宮川雅臣
御詠歌
持つ人の 心によりて 鏡さえ 明るくも見え 曇りても見ゆ
交通
バス
- 広島ゴルフ場前停留所・徒歩3分
- 車
- 広島インターから10分 安芸大橋から2分
脚注
外部リンク
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- 広島市立高女原爆慰霊碑-広島平和記念資料館
- 広島市立高等女学校職員生徒原爆追悼碑-ひろたび広島広域観光情報サイト
- 原爆関係の慰霊碑等の概要-広島市公式ホームページ
- 広島市真言宗持明院