手力雄神社(てぢからおじんじゃ[1])は、岐阜県岐阜市にある神社である。
手力雄神社 | |
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鳥居と拝殿 | |
所在地 | 岐阜県岐阜市蔵前6丁目8-22 |
位置 | 北緯35度23分44.5秒 東経136度48分19.2秒 / 北緯35.395694度 東経136.805333度座標: 北緯35度23分44.5秒 東経136度48分19.2秒 / 北緯35.395694度 東経136.805333度 |
主祭神 | 天手力雄神 |
社格等 | 旧郷社 |
創建 | 貞観2年(860年) |
例祭 | 4月第2土曜日・10月22日 |
地図 | 手力雄神社 |
式内社の美濃国厚見郡比奈守神社とされているが、同じ岐阜市内の比奈守神社の説がある。現在の「比奈守神社」は明治元年「飛騨守神社」が改名したもの。新撰美濃誌には「比奈守神社今手力雄神社といふ」とある。
歴史
寺伝によると貞観2年(860年)に鎮座したと伝えられる[2]。弘治年間には斉藤氏の祈願所になる。
中世には長森が戦略上の要所であることから、度々戦火に見舞われた。木曽川渡河点は手力雄神社鎮座地以外に無く、尾張以東の東海道の軍勢が京に上るには、この場所で木曽川を渡るしかなかった。従って信長父子は数次に亘って当所を攻めたが、湿地帯であることから大兵を用いることができず、断念。墨俣で陽動作戦を行う一方、鵜沼、前渡の川並衆を調略し、舟で各務原に渡った。信長公記には「新加納に布陣した。」とある。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては付近の一帯が戦場となったため境内一帯をほぼ焼失[2]。境内地から数百メートル離れた鳥居だけが残り、そこに掲げられていた「古額」が宝物として保存されることになった[2]。
元和年間(1615年~1624年)に本殿・拝殿などが再建され、幣殿・拝殿は明治13年(1881年)に再度造営されている。なお、境内地は明治の地租改正の時に確定した[2]。
境内と周辺
- 本殿・幣殿・拝殿
- 社務所
- 一の鳥居:はるか大垣市赤坂にあるとされる。中山道が開設当時美濃赤坂から鵜沼まで舟航であった時代の名残。天正14年以後陸路になった。
- 二の鳥居:石造。中山道と手力雄神社参道との境。
- 三の鳥居:朱塗り。道路の半分を占める。道路は手力雄神社の参道で、私道。祭礼に使用しない時は市民に開放されている。
主な神事
春の大祭は、火薬や花火を仕込んだ神輿を裸男が担ぎ、火の粉を浴びつつ境内を練り歩く豪壮なもので「火祭」として著名。300年余の歴史を誇り(火祭の神事は、昭和34年まで秋の大祭の一環として行われていた)、岐阜県の重要無形民俗文化財に指定されている[3]。
その他、毎年8月第2日曜日には、岐阜市観光コンベンション課により「長良川水と火の祭典.手力の火祭・夏」が(長良川河川敷)で開催されている。迫力は本祭さながらである。
主な行事
- 2月22日:祈年祭
- 4月第二土曜日:春の大祭(手力の火祭)
- 10月10日:秋の大祭
- 11月22日:新嘗祭
文化財
- 岐阜県指定文化財
- 手力雄神社火祭り(重要無形民俗文化財)[3]
- 岐阜市指定文化財
手力雄神社(岐阜市)と手力雄神社(各務原市)の関係
各務原市の那加手力雄神社の祭神の天手力雄神は、戸隠神社の影響が強いといわれている。事実、本殿の軒に龍の彫刻があり、龍に関わる話が伝わっているが、これは戸隠神社の九頭竜社の影響という。
岐阜市の手力雄神社は、貞観2年(860年)、朝廷の宮中の祭神を分祀したもので、元々の祭神は伊勢神宮の天手力雄神であるという。手力雄神社は長森13ヶ村の郷社であり、那加手力雄神社は那加13ヶ村の郷社である。隣社という以外何の関係もない。
交通アクセス
- 名鉄各務原線 手力駅から南へ徒歩で約5分。
- 373バス(岐阜市コミュニティバス)「美濃正」バス停留所から南へ徒歩で約2分。または、同「長森南交番」バス停留所から東へ徒歩で約5分。
脚注
関連項目
外部リンク
- - ウェイバックマシン(2005年4月21日アーカイブ分) 平成17年度の訪問記(音声あり注意)