成田 才次郎(なりた さいじろう、安政2年(1855年) - 慶応4年7月29日(1868年9月15日))は、幕末の二本松藩士の子弟、二本松少年隊の一人。
経歴
安政2年(1855年)、(成田外記右衛門)の次男として誕生。
(堀良輔)の回顧によると、才次郎は10歳の頃から影流居合師範・遊佐孫九郎の居合稽古に通っていた。
慶応4年7月29日(1868年9月15日)に木村銃太郎の門下生(二本松少年隊)の一人として城南大壇口へ出陣し、戦ったが破られてしまう。この際、才次郎も負傷し、一斉に退却した仲間たちとも皆ばらばらにはぐれてしまった。
その後、松坂門入口に身を潜ませ[1]、白井小四郎率いる一部隊が通りかかると、白井を刺殺し、才次郎もその場で絶命した[2]。白井は絶命間際、自分の不覚だからこの勇敢な少年を殺すなと部下に言い残している。享年14。
二本松の伝統
二本松藩では『斬らずに突け』という伝統の剣法があった。由来は、浅野内匠頭が吉良上野介を討ち損じたことを聞いた時の二本松藩主・丹羽光重[3]が、「斬りつけずに突けばよかったものを」と悔しがった話から。
才次郎も木村銃太郎の門下生(二本松少年隊)の一人として出陣することが決まると、父は、身体の小さな子供では長い刀を振り回したところで到底敵は倒せぬと言う事で、敵を見たら隊長らしき人物を斬らずに突くよう強く言われていた。