この記事は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2019年8月) |
生涯
805年4月に立太子され、同年8月には順宗の病を理由にした譲位にともない即位した。
即位後は宦官の勢力に対抗するために(杜黄裳)を登用した。さらに地方の節度使勢力を抑制するため、817年(元和12年)には淮南西道節度使を討って地方の統制強化も実施している。対藩鎮勢力の施策としては、儒者の臣を藩帥に任命し、監査任務を主とする監軍には宦官を配し、節度使勢力の動静を監視させる制度を開始した。さらに名臣と謳われた武元衡や(李吉甫)らにも恵まれ、軍備を拡張した禁軍を積極的に活用した結果、唐王朝に反抗的であった河朔三鎮も服従を誓い、衰退した唐は一時的な中興を見た。
だが、太子に立てられた長男の鄧王・(李寧)(恵昭太子)が19歳で早世すると、憲宗はその悲しみから仏教や道教に耽溺するようになった。法門寺の仏舎利を長安に奉迎することを計画し、韓愈の「論仏骨表」による諫言を退け、莫大な国費を費やして供養を行なった。また丹薬を乱用し宦官を虐待するという精神的異常をきたした。そのため820年に宦官の(王守澄)や(陳弘志)らによって43歳で暗殺された。