艦歴
1942年(昭和17年)11月15日、日立桜島造船所にて竣工。
呉鎮守府籍、佐伯防備戦隊付属に編入、佐伯を基地にパラオ、沖縄方面の船団護衛などに従事。1944年(昭和19年)6月1日、(第4海上護衛隊)に編入。1945年(昭和20年)2月1日、第18戦隊に編入、任務は引き続き船団護衛や機雷敷設等。
また、「怒和島」はドイツの潜水艦「U511」、「UIT24」および陸軍の潜水艦の護衛やドイツ潜水艦に撃沈されたソ連潜水艦の乗員だという漂流者を救助したこともあった[1]。1942年12月20日深夜、「怒和島」は都井岬沖でアメリカ潜水艦「ドラム」を発見し、攻撃した[2][3]。1944年7月3日、基隆発のタモ20B船団護衛中潜水艦の雷撃を受けるが、魚雷は「怒和島」の下を通過し、その直後隣を航行していた「賀茂丸」が被雷した[4]。1945年3月1日、石垣島で敵機と交戦し撃墜2、不確実1記録した[5]。
4月30日、佐伯で爆撃を受けて後部に被弾、大入島へ向かいそこで擱座した[6]。戦死者は14名であった[7]。この爆撃はグアムより佐伯飛行場を目標に来襲した第314爆撃飛行団のB-29爆撃機11機によるものであった[8]。
11月20日除籍[9]。戦後、日鮮サルベージにより解体される。
その他
13mm連装機銃は25mm3連装機銃に取り替えられたほか、さらに各所に25mm機銃が追加され最終的には20基くらいになっていた[10]。このため乗員も増加し、最終的には150名以上となった[11]。レーダーは1944年9月に一号三型電探が装備された[11]。他、水中磁気探知機の実験にも従事した[12]。
艇長は久保忠彦大尉であった[13]。久保は大阪商船入社後召集され、短期現役士官として少尉となり、いったん大阪商船に戻った後再び召集され「怒和島」艇長となる前は特設砲艦兼敷設艦「新京丸」の航海長などを務めた[14]。乗組員は久保の操艦の上手さを自慢していた[15]。
脚注
- ^ 敷設艇怒和島の航海、29-31、47-48ページ
- ^ #呉防戦1712pp.38-40
- ^ #SS-228, USS DRUM, Part 1p.65
- ^ 敷設艇怒和島の航海、63-64、126ページ
- ^ 敷設艇怒和島の航海、70-72、131ページ
- ^ 敷設艇怒和島の航海、77-80ページ
- ^ 敷設艇怒和島の航海、81ページ
- ^ 敷設艇怒和島の航海、79ページ
- ^ 敷設艇怒和島の航海、132ページ
- ^ 敷設艇怒和島の航海、20、22ページ
- ^ a b 敷設艇怒和島の航海、22ページ
- ^ 敷設艇怒和島の航海、19ページ
- ^ 敷設艇怒和島の航海、36ページ
- ^ 敷設艇怒和島の航海、36、38ページ
- ^ 敷設艇怒和島の航海、39ページ
参考文献
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第14巻 小艦艇Ⅱ』光人社、1990年。 (ISBN 4-7698-0464-4)
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』朝雲新聞社、1969年。
- 白石良『敷設艇 怒和島の航海<改訂版>』元就出版社、2012年、(ISBN 978-4-86106-212-4)
- 新版『敷設艇「怒和島」』 光人社NF文庫、2022年、(ISBN 978-4-7698-3259-1)
- (issuu) SS-228, USS DRUM, Part 1. Historic Naval Ships Association
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C08030367100『自昭和十七年十二月一日至昭和十七年十二月三十一日 呉防備戦隊戦時日誌』。