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忽那 通著(くつな みちあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。河野氏の家臣。(板島水軍)の将。伊予国(忽那山城)主。
略歴
(忽那通乗)の子として誕生。
永禄8年(1565年)、豊後国の大友義鎮が伊予に侵攻すると、河野氏の指示を受け、来島通康、村上武吉らと共に大友軍を撃退した。天正元年 (1573年)、(大野氏)が長宗我部元親に降ると、その討伐に出陣した。天正年間には、畿内を制圧した織田信長の軍勢が中国地方にも進出し、各地で毛利氏と衝突を繰り返すようになった。通著は村上水軍らと共に毛利氏の支援を行い、大友氏の牽制のために豊後周辺にも出陣している。天正7年(1579年)、(大野直之)が長宗我部元親に通じて河野氏に謀反を起こすと、その鎮圧に出陣したが、(花瀬城)を巡る戦いにて討死した。
嫡男が幼かったため、弟・(通恭)が家督を継ぐが、羽柴秀吉の四国攻めにおける(高峠城)の戦いで、小早川隆景の軍と激戦の末に討死した。弟・(通実)も金子城にて討死し、一族のほとんどは滅亡した。
関連項目
- (忽那家文書)