概要
598年(開皇18年)、隋により秀容県に忻州が置かれた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、忻州は廃止され、秀容県は雁門郡に編入された。608年(大業4年)、(楼煩郡)が置かれると、秀容県は楼煩郡に編入された[1]。
618年(武徳元年)、唐により隋の楼煩郡秀容県の地に忻州が置かれた。742年(天宝元年)、忻州は定襄郡と改称された。758年(乾元元年)、定襄郡は忻州の称にもどされた。忻州は河東道に属し、秀容・定襄の2県を管轄した[2]。
北宋のとき、忻州は(河東路)に属し、秀容・定襄の2県を管轄した[3]。
金のとき、忻州は(河東北路)に属し、秀容・定襄の2県と忻口・雲内・徒合・石嶺の4鎮を管轄した[4]。
元のとき、忻州は(冀寧路)に属し、秀容・定襄の2県を管轄した[5]。