徳川 頼職(とくがわ よりもと)は、和歌山藩の第4代藩主。
生涯
延宝8年(1680年)1月17日、第2代藩主・徳川光貞の三男として生まれる。幼名は長七。元服して松平 頼元(まつだいら よりもと)と称し、その後松平 頼職に改め、従四位下・左近衛権少将兼内蔵頭の官位を受けた。
元禄10年(1697年)4月、和歌山藩邸を訪問した第5代将軍徳川綱吉に御目見し、越前丹生郡内に3万石を与えられ、高森藩を興す。この際に弟の頼方(のちの吉宗)も同様に越前国丹生郡内に3万石を与えられ、葛野藩を立藩している。
宝永2年(1705年)に兄で第3代藩主の綱教が病気に倒れたため、その養子となって徳川姓に復した。5月に綱教が薨去したことによって和歌山藩を相続した。相続の際に高森藩3万石は幕府に一旦返され、内1万石が頼方に加増されている。
8月に父の光貞が薨去した際、頼職はその臨終に駆けつけるべく江戸から(早馬)で和歌山へ向かい、臨終には間にあった。しかし、無理を押して国元へ駆けつけたのが災いし、頼職も間もなく病に倒れた。父の死去1か月後の9月8日、26歳で病のため卒去した。藩主を相続してからすぐに没したため、和歌山藩主の家督相続時の格式である従三位・左近衛権中将の官位も将軍の偏諱(一字拝領)も受けていない。法名は深覚院殿贈相公三品圓巌真常大居士。藩内では綱教の死から数か月で、同じ年のうちに3人目の葬儀を出す異常事態となり、藩財政悪化に拍車がかかった。
和歌山藩主としての治世は3か月であり、この間の江戸参府はなく、和歌山帰国1回、和歌山在国の通算は1か月であった[2]。
官職および位階等の履歴
※日付=旧暦