事跡
幼い頃に(蘭陵学堂)で学び、11歳の時に父に従って上海に移り、(南洋公学)附属小学に転じた。後に南洋公学に進学している。1914年(民国3年)、省立北洋大学法科に入学し、国語演講会会長・英語演講会会長に選ばれた。1919年(民国8年)、外交官試験を受験し、採用されている。1920年(民国9年)4月、駐米公使館に赴任し、あわせてジョージ・ワシントン大学に入学、後に法学修士号を取得した。
1922年(民国11年)7月に大学卒業を機に帰国し、南開大学政治系教授兼文科主任に就任する。また、天津『(益世報)』総主筆としてジャーナリスト界にも足を踏み入れた。1926年(民国15年)、上海特区法院が成立すると、推事(判事)に選出される。1927年(民国16年)、鎮江地方法院院長に昇進した。1928年(民国17年)3月、国民政府外交部参事に任命され、4月、同部第1司司長、6月、第3司司長となっている。1929年(民国18年)1月、外交部欧美司司長となり、5月には同部駐上海交渉員を兼ねた。
1931年(民国20年)、国立中央政治大学外交系主任を兼ねる。同年1月、外交部常務次長代理に昇進し、1932年(民国21年)6月には同部政務次長となった。1941年7月、駐オーストラリア公使となり、1943年にメルボルン大学から法学博士の学位を授与されている。1944年11月、駐トルコ大使に転任し、1945年4月、ワシントンD.C.に赴いて国際連合設立準備のための法律専門家委員会に参加し、国際司法裁判所規程の制定に携わった。また、サンフランシスコ会議の中国代表団顧問も務めている。
1946年、徐謨は国際司法裁判所裁判官に選出される(1948年にも再選出)。1949年3月、それまで就任していたトルコ大使の地位を退いた。1956年、スペインで開催された国際法学会に参加し、副会長に選出されている。
同年6月28日、裁判官在任中にオランダのデン・ハーグにて病没。享年64。
参考文献
- Pressemitteilung 56/12 des Internationalen Gerichtshof vom 28. Juni 1956 anlässlich des Todes von Hsu Mo (online verfügbar über die Website des IGH als PDF-Datei, ca. 70KB)
- (徐友春主) 編『民国人物大辞典 増訂版』(河北人民出版社)、2007年。ISBN (978-7-202-03014-1)。
- (劉国銘主編)『中国国民党百年人物全書』(団結出版社)、2005年。ISBN (7-80214-039-0)。
- (東亜問題調査会)『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。