弘光帝(こうこうてい)は、南明の初代皇帝。諱は由崧(ゆうすう)。廟号は安宗(あんそう)。日本では在位中の元号弘光を取って弘光帝と呼ぶのが一般的。
生涯
福王朱常洵(万暦帝の三男)の長男。万暦45年(1617年)に徳昌郡王に封じられ、後に福王世子に立てられる。
崇禎14年(1641年)、李自成が洛陽を攻撃し、父の朱常洵が殺害されると懐慶府に逃れた。翌年、懐慶府が李自成によって落とされると淮安に逃れ、同年5月に年少の従父の潞王(朱常淓)(曾祖父の隆慶帝の孫で潞王朱翊鏐の子)を礼部侍郎の銭謙益・史可法ら東林系の一派らが擁立し、逆に鳳陽総督の馬士英・阮大鋮ら宦官派は福王を南京を擁立して対決したが、結局は福王が擁立され、初め監国を称し、まもなく皇帝を称した。
南明政権を成立させた弘光帝であるが、舞踊に熱中し、政務は馬士英・阮大鋮に委任した。南京政権は内部抗争が絶えず、史可法らを更迭するなど混乱が絶えなかった。
弘光元年(1645年)、清軍が南京を占領すると、蕪湖に逃れて(黄得功)の支援を要請したが、結局は総兵官の(田雄)・馬得功に裏切られて捕らえられ、北京に送られて、翌年に処刑された。
宗室
- 皇后
- 孝哲懿荘温正仁靖儀天昭聖簡皇后黄氏
- 孝義端仁粛明貞潔熙天詒聖皇后李氏
- 妃
- 貴妃金氏
- 妃汪氏、妃陳氏、妃黄氏、妃郭氏
- 嬪某氏(法名は真修)
- 子女
- 女子(夭折)
- 女子(1641年行方不明)
- 族子
- 朱蓮璧(夭折)