概略
康之淵は、モンゴルが高麗に侵攻して、武臣政権が江華島に遷都したときに重臣・扈從功臣であった。以後、門下侍中、信城府院君の要職を歴任する[1]。
家系
中国の陝西省京兆郡出身の康叔の次男の67代子孫[1][2][3]の康虎景の14代子孫であり、康忠の12代子孫にあたる[1][3]。康之淵の6代子孫が、忠恵王時代に文科及第した翰林学士の康允成であり、その娘が李氏朝鮮初代王・李成桂の第二夫人・神徳王后である[1]。
王氏高麗との血縁関係
中国の陝西省京兆郡出身の康叔の次男の67代子孫の康虎景の息子が康忠であり、康忠は、伊帝健・宝甸・康宝育の3人の子を授かる。康宝育は姪の康徳州を娶り娘の康辰義をもうけ、その康辰義と中国人とのあいだに生まれたのが王帝建である[4]。王帝建の父の中国人は中国唐の皇族で[5]、『(編年通録)』と『高麗史節要』では粛宗、『編年綱目』では宣宗である[6][5]。父の中国人が新羅に来た時に、康宝育の娘の康辰義との間に王帝建は生まれた[5]。王帝建は、父を探しに唐に行くため黄海を渡河していた途上、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)と出会い、王帝建は、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)の駙馬となる。『聖源録』によると、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)というのは、中国平州出身の頭恩坫角干の娘である[7]。そして王帝建と西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)との間に息子の王隆が生まれる[5][7]。その王隆の息子が高麗の初代王王建である[1][8]。
脚注
参考文献
- ネイバー知識検索 신천강씨 信川康氏. 韓国民族文化大百科事典
- . 世界日報. (2013-04-02). オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。 2016年10月27日閲覧。
- (高雲基)『韓国の中世における女性 : 13世紀の文献資料を中心に』慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会〈慶應義塾大学日吉紀要. 言語・文化・コミュニケーション No.27〉、2001年12月 。
- 韓国民族文化大百科事典 의조경강대왕. 韓国民族文化大百科事典
- 韓国民族文化大百科事典 경강대왕. 韓国民族文化大百科事典