平 時兼(たいら の ときかね)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての貴族、公卿。少納言(平信国)の子で、権大納言平時忠の養子となった[1]。
生涯
治承4年(1180年)叙爵[2]。同年、養父時忠が知行国主となった伊豆国の国司伊豆守となった[1][2][4]。時兼の目代として国衙にあった山木兼隆は同年8月の源頼朝挙兵の際に討たれている。平氏政権衰亡後は近衛家に仕え[5]、承元4年(1210年)従五位上に進む。承久の乱後の承久3年(1221年)に日向守となり、嘉禄元年(1225年)勘解由次官を兼ねるが、翌嘉禄2年(1226年)病と称して籠居し[5]日向守を子の(兼親)に譲る[2]。安貞元年(1228年)左少弁となり、同年には従四位に進む。貞永2年(1233年)従三位に昇進して公卿に列するものの、怨恨があり出仕は拒否している。暦仁2年(1239年)には右京大夫となる[1][2]。仁治3年(1243年)(吉田為経)・姉小路顕朝とともに四条天皇の葬礼奉行を務める[6]。同年から一時三河権守を兼ねた。建長元年(1249年)出家、死去した[1][2]。
官歴
- 治承2年(1178年)8月29日:縫殿権助、12月15日:春宮権少進
- 治承4年(1180年)4月21日:従五位下、6月29日:伊豆守
- 承元4年(1210年)1月:従五位上
- 建暦元年(1211年)10月29日:正五位下
- 建保4年(1216年)3月20日:兵部権少輔
- 承久3年(1221年)8月29日:兼日向守
- 嘉禄元年(1225年)4月26日:兼勘解由次官、8月19日:蔵人
- 安貞元年(1228年)10月4日:左少弁、12月17日:従四位下
- 安貞2年(1229年)3月30日:従四位上
- 寛喜2年(1230年)3月20日:権右中弁
- 貞永元年(1232年)4月29日:右中弁、10月20日:(修理右宮城使)
- 貞永2年(1233年)1月6日:正四位下、1月28日:従三位
- 暦仁2年(1239年)1月24日:右京大夫
- 仁治3年(1242年)3月7日:兼三河権守