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平安丸

平安丸(へいあんまる)は、かつて日本郵船が所有・運航していた貨客船

平安丸
平安丸
基本情報
船種 貨客船
クラス (氷川丸級貨客船)
船籍 大日本帝国
所有者 日本郵船
運用者 日本郵船
 大日本帝国海軍
建造所 大阪鐵工所
母港 東京港/東京都
姉妹船 氷川丸
日枝丸
建造費 665万円(当時)
航行区域 遠洋
信号符字 JGZC
IMO番号 36813(※船舶番号)
建造期間 494日
就航期間 4835日
経歴
起工 1929年6月19日
進水 1930年4月16日
竣工 1930年11月24日
就航 1930年12月18日
除籍 1944年3月31日
最後 1944年2月18日被弾沈没(トラック島空襲
要目
総トン数 11,616トン(1930年)
11,614トン(1931年)
純トン数 6,788トン(1930年)
6,833トン(1931年)
(載貨重量) 10,382トン
排水量 不明
全長 163.3m
登録長 155.44m
垂線間長 155.91m
型幅 20.12m
型深さ 12.50m
高さ 29.26m(水面からマスト最上端まで)
12.19m(水面から船橋・煙突最上端まで)
11.88m(水面から船橋後方デリックポスト最上端まで)
9.75m(水面から後部船倉用デリック最上端まで)
喫水 9.2m
機関方式 (B&W)製ディーゼル機関 2基
推進器 2軸
最大出力 13,404(BHP)
定格出力 11,000BHP
最大速力 18.0ノット
航海速力 15.0ノット
航続距離 15ノットで18,700海里
旅客定員 一等:76名
二等:69名
三等:185名
積載能力 2,600トン
1941年10月3日徴用。
高さは米海軍識別表[1]より(フィート表記)。
(テンプレートを表示)
平安丸
1943年6月、幌筵沖に停泊する平安丸と伊171
基本情報
艦種 特設潜水母艦
艦歴
就役 1942年2月15日(海軍籍に編入時)
連合艦隊第六艦隊第8潜水戦隊/横須賀鎮守府所管
要目
兵装 開戦時
15cm砲4門
九三式13mm機銃連装2基4門
110cm探照灯1基
90cm探照灯1基
三米半測距儀1基
最終時
十年式12cm高角砲2門
九六式25mm連装機銃2基4門
九三式13mm機銃連装2基4門
装甲 なし
レーダー 最終時
E27型電波探知機2基
ソナー 最終時
仮称三式水中聴音機1基
徴用に際し変更された要目のみ表記。
(テンプレートを表示)

なお、1951年に2代目に当たる貨物船「平安丸」が建造されているが、本項では1代目の貨客船について解説する。

概要

「平安丸」は氷川丸級の3番船として、大阪鐵工所桜島工場で1929年(昭和4年)6月19日に起工し1930年(昭和5年)4月16日に進水、11月24日に竣工した。船橋には平安神宮を祀る[2]。氷川丸級3隻(氷川丸《横浜船渠》、日枝丸《横浜船渠》、平安丸)は頭文字『H』を持つ神社名(氷川神社東京千代田区日枝神社平安神宮)に由来している[2]。本船は12月18日香港を出港し、シアトル航路に就航した。船価は665万(当時)であった。

1941年(昭和16年)8月、日米関係悪化により、本船は空船のまま急遽シアトルを出港し、横浜港に戻った。これが戦前のシアトル航路の最終航海となった。

同年10月3日に日本海軍に徴用され、16日付で横須賀鎮守府所属の特設潜水母艦となる。15日から真珠湾攻撃をまたいだ12月30日まで三菱重工業神戸造船所で艤装工事を受けた。工事中の12月20日に第六艦隊第1潜水戦隊付属の潜水母艦となった。工事により15センチ砲や二連装十三粍高角機銃、その他測距儀や探照燈などが装備された。31日から1942年(昭和17年)2月17日まで輸送任務として、クェゼリン環礁と呉との間を往復。3月16日から18日までにかけて横須賀に移動。停泊中の7月14日に第一潜水戦隊旗艦となる。「平安丸」は補給用魚雷や弾薬を搭載し、8月18日に横須賀を出航。24日にトラック泊地に到着している。12月25日からはトラックとラバウルの間を往復した。

1943年(昭和18年)に入り、「平安丸」はキスカ島撤退作戦に参加するべくトラックを出航し、5月4日に横須賀に到着。15日に第五艦隊の指揮下に入る。27日に横須賀を出航し、6月2日に幌筵に到着する。作戦従事中、伊2板倉光馬艦長が海に転落する騒ぎがあり、これに気づいた「平安丸」は「イカニサレシヤ」との信号を送る。伊2は艦長が海に転落したことをごまかすため、「溺者救助訓練ヲ実施セリ。作業完了、異状ナシ」と返信してきた。作戦終了後の8月1日に第六艦隊第1潜水戦隊旗艦に復帰し、14日に横須賀に帰還した。9月16日には第十七師団酒井康中将)をラバウルに輸送する丁二号輸送に加わるため横須賀を出航。20日に上海に到着した。同地で特設巡洋艦清澄丸」(国際汽船、8,613トン)、「護国丸」(大阪商船、10,438トン)、水上機母艦秋津洲」などとともに船団を組み、9月24日に上海を出撃[3][4]。船団は10月5日にラバウルに到着し、兵員、物資を揚陸した。「平安丸」は6日にラバウルを出航。9日にトラックに帰還している。14日にはトラック発横須賀行きの第4014甲船団に加わって出航。21日に横須賀に到着し、23日から11月7日まで改装を受ける。公試後、14日に横須賀発トラック行きの第3115船団に加わって横須賀を出航。24日にはトラックに到着。以降は沈没するまでトラックを離れず、潜水艦に補給物資を供給し続けた。1944年(昭和19年)1月15日、訓練部隊である第11潜水戦隊に編入。

2月17日、アメリカ海軍第58任務部隊によるトラック島空襲で左舷船尾に直撃弾1発、至近弾数発を受け推進器が破損し、六番船倉が浸水したが乗員の必死の排水と応急修理で残存した。翌18日の空襲で左舷中央部に直撃弾2発、魚雷1本を受け、中甲板と下甲板、機械室の一部が破壊され火災発生、総員退去となり、9時30分に転覆沈没した。同年3月31日除籍及び解傭。

現在、平安丸は夏島(デュブロン島)の北西、水深36mの地点で右舷を上にして横転状態で沈んでおり、原型をとどめている。船倉には魚雷や潜望鏡などがある。

艦長

  • 原田文一 大佐:1941年10月15日[5] - 1942年11月10日
  • 関本織之助 大佐:1942年11月10日[6] - 1943年11月1日
  • 玉城利治 大佐:1943年11月1日[7] - 1944年3月16日[8]

ギャラリー

脚注

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  1. ^ Hikawa_Maru_class
  2. ^ a b #三菱、20話16頁『船名の由来は埼玉県氷川神社』
  3. ^ #護国丸1809pp.14-15
  4. ^ #木俣軽巡p.497
  5. ^ 「海軍辞令公報(部内限)第728号 昭和16年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082800 
  6. ^ 「海軍辞令公報(部内限)第982号 昭和17年11月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072088000 
  7. ^ 「海軍辞令公報(部内限)第1253号 昭和18年11月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094200 
  8. ^ 『日本海軍史』第10巻、225頁。

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030664600『昭和十八年一月一日~昭和十九年一月二十四日 平安丸戦闘詳報』。 
  • 『海軍』編集委員会『海軍第十一巻 小艦艇 特務艦艇 雑役船 特設艦船』1981年
  •  海軍歴史保存会『日本海軍史』第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 海人社『世界の艦船』1997年6月号 No.525
  • 海人社『世界の艦船』別冊『日本の客船(1)』
  • 海人社『世界の艦船』1999年8月号 No.556
  • 船舶技術協会『船の科学』1980年1月号 第33巻第1号
  • 戦没船を記録する会 『知られざる戦没船の記録(上)』1995年8月
  • 日本郵船株式会社『七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念船舶写真集』1985年
  • 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』1994年2月
  • 三菱重工業株式会社横浜製作所「第3話 貨客船「氷川丸」」『20話でつづる名船の生涯』三菱重工業株式会社横浜製作所総務勤労課、2013年8月。 

関連項目

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