生涯
平佐氏は毛利氏の庶流。毛利元春の四男・(中馬忠広)の次男である(中馬広貞)が安芸国高田郡平佐郷を領して、地名から平佐氏を名乗った。
毛利元就の御手廻役となって毛利氏家臣から元就への申し出の取り次ぎや、使者を務めるなど、元就の側近として活躍し年寄衆の一人となる。天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いの局地戦・(青山土取場の戦い)で他の諸将と共に尼子氏の(三沢為幸)を打ち破った。
永禄6年(1563年)の出雲国白鹿城攻めでも(桜井就綱)と共に小高丸を奪取する戦功を挙げ、元就から感状を得ている。また、天正4年(1576年)の給地付立によると、安芸高田郡多治比河田名・かけ名、安芸山県郡壬生・沼田郡(伴)・佐東郡上安、周防国都濃郡小畑などを領しているが、天正末年の惣国検地において給地替えが行われ、天正19年(1591年)には備後国府中木梨領内に200石を与えられた。
天文21年(1552年)、(粟屋就俊)が戦死したため、元就の命によって就俊室が就之に再嫁した。彼女はこの時就俊の男子を懐妊しており、程なくして男子が誕生したため、元就はこの男子に就俊の後を継がせて粟屋就貞と名乗らせた。しかし、就貞は天正元年(1573年)に死去したため、就之は就貞の嫡男である(元貞)を養子としている。
なお、弘治3年(1557年)に毛利元就が子の毛利隆元、吉川元春、小早川隆景に宛てた有名な「三子教訓状」への返書の宛先も、元就の側近であった就之宛となっている。