経歴
聖武朝の天平17年(745年)4月、右京職移に、大進・従六位下・勲十二等として署がある[1]。同19年(747年)正月、県犬養小山守・大野横刀・小野田守とともに正六位下から従五位下に昇叙。同年3月には壬生宇陀麻呂の後任の右京亮に就任する。同年11月の「国分寺造営督促の詔」により、石川年足・阿倍小島とともに布勢宅主も各道に分けて派遣され、寺地の検分、寺の作られた状態の視察を行い、国司・国師とともに国分寺の寺地を選び、造営と営繕を加えている[2]。
官歴
注記のないものは『続日本紀』による
脚注
参考文献
- 『続日本紀』3 新日本古典文学大系 14岩波書店、1992年
- 宇治谷孟訳『続日本紀(中)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
- 『日本古代人名辞典』6 - p1475、竹内理三・山田英雄・平野邦雄編、吉川弘文館、1973年