出自
男人の出自について、『(紀氏家牒)』では巨勢小柄-建彦宿禰-巨勢川辺宿禰(軽部宿禰)-巨勢川上宿禰-巨勢男人という系譜を記している。
経歴
武烈天皇崩御後の皇嗣選出にあたって男人は大臣であったが、大連・大伴金村が推薦した男大迹王について、皇統の子孫を調べると賢者は男大迹王しかいないとして、大連・物部麁鹿火と共に支持する[1]。男大迹王が皇位についた(継体天皇)のちも、男人は引き続き大臣に任ぜられた[2]。
継体天皇21年(527年)に発生した磐井の乱に際して、大連・大伴金村、大連・物部麁鹿火と共に将軍の適任者について諮問を受け、金村らと共に麁鹿火を推薦している[3]。
安閑天皇元年(534年)安閑天皇が即位すると、娘の紗手媛・香香有媛は共に妃に立てられた[4]。
『続日本紀』天平勝宝3年(751年)2月己卯条には、(雀部真人)が、巨勢男人は本来「雀部男人」であったのを誤って巨勢と記されたと奏上し、時の大納言であった巨勢奈弖麻呂もその主張を支持したため、訂正したと記されている[5]。なお、この記事によれば、男人は継体・安閑朝に大臣であったと記されているが、『日本書紀』では継体天皇23年(529年)9月に亡くなったと記されており、『日本書紀』とは異なる史料が存在していたことがわかる[5]。