経歴
聖武朝の天平18年(746年)正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵し、天平20年(748年)、秦大魚の後任の(下野守)に任じられた。その後しばらく叙位任官の記録が途絶え、この間に名を君成から公成に改めている。「公成」と名を改めたのには、天平宝字3年(759年)10月の、「君」の文字を民の姓から除くという藤原仲麻呂の政策[1]があったものと推定される[2]。
(称徳朝)の天平神護2年(766年)、石川人成の後任の武蔵守に任ぜられる。神護景雲2年(768年)2月に左大舎人頭として京官に復すると、閏6月には百済王三忠の後任の兵部少輔に遷り、この間に従五位上に叙せられている。
神護景雲4年(770年)8月に白壁王(のちの光仁天皇)が立太子すると、9月に賀茂大川の後任の(長門守)として地方官に転じ、10月には佐伯真守の後任の常陸介に遷った。その後、宝亀3年(772年)正五位下、宝亀5年(774年)正五位上と昇叙されている。
官歴
『続日本紀』による。