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川原 茂輔(かわはら もすけ、1859年10月10日(安政6年9月15日) - 1929年(昭和4年)5月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議長、佐賀県会議長。
経歴
肥前国西松浦郡大川内村(現:佐賀県伊万里市)出身。(草場船山)の塾で漢学を学ぶ。佐賀県会議員、佐賀県参事会員、佐賀県会議長、佐賀日日新聞社長などを歴任。
1892年2月、第2回衆議院議員総選挙に佐賀県第二区で中央交渉部から出馬し初当選。次の第3回衆議院議員総選挙では国民協会から出馬するも落選。1902年8月、第7回衆議院議員総選挙の佐賀県郡部区に立憲政友会から出馬し当選し、1928年2月の第16回衆議院議員総選挙まで連続10回、通算で11回の当選を果たした。
所属政党では立憲政友会総務などを務めたが、1924年、立憲政友会の床次竹二郎ら改革派が脱党し結成した政友本党に移り総務を務めた。1927年、政友本党と憲政会との合同に反対し、再び立憲政友会に復帰した。1929年3月に第26代衆議院議長に選出されたが、同年5月に現職で死去した。
その他、日清戦争・日露戦争の観戦、第一次世界大戦の日独戦争時の青島出征軍慰問議員団長となり、ワシントン会議視察のため渡米などを行った。