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島田良臣

島田 良臣(しまだ の よしおみ)は、平安時代前期の貴族。(伊賀守)・島田清田の孫で、(伊勢介)・島田忠臣の同母弟[2]官位従五位下大外記

 
島田良臣
時代 平安時代前期
生誕 天長9年(832年[1]
死没 元慶6年8月13日882年9月28日
官位 従五位下大外記
主君 清和天皇陽成天皇
氏族 島田氏
兄弟 忠臣良臣
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経歴

文章生から(加賀権掾)を務め、散位を経て貞観15年(873年少外記に任ぜられる。この間の貞観13年(871年)渤海国入観使・楊成規らが加賀国の海岸に到着しており[3]、良臣が在任中であれば渤海使への応対を務めたことが想定される[4]。また貞観15年(873年)には右大臣藤原基経以下6名に国史(『日本文徳天皇実録』)編纂のがあり、これに参画している(この時の官位正六位上散位[5]

貞観16年(874年)大外記に任ぜられ、貞観18年(876年)従五位下に叙爵する。当時は叙爵すると地方官に転じる傾向が見られるが、良臣はこののち元慶6年(882年)まで長く大外記を務めており、外記としての能力を認められていた可能性を指摘する意見もある[6]。またこの間、元慶2年(878年)に元慶度の日本書紀購書が始まった際に良臣は都議((尚復))を務め[7]、元慶3年(879年)には『日本文徳天皇実録』が完成している。結局国史編纂開始から完成まで携わったのは、責任者の藤原基経と良臣の2人のみであった。元慶5年(881年)加賀介を兼帯するが、ここでも大外記に留まり加賀介は遙任で務めた。また、長きに亘り外記の官職にある一方で、藤原基経の近習も務めていたという[8]

元慶6年(882年)8月13日(卒去)[9]享年51。最終官位は大外記従五位下兼加賀介。良臣の死を悼んだ、兄・忠臣と菅原道真の手による漢詩作品が伝わっている[10]

官歴

注記のないものは『外記補任』による。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 『外記補任』貞観15年条の年齢42歳による。
  2. ^ 『田氏家集』巻中-101
  3. ^ 日本三代実録』貞観13年12月11日条
  4. ^ 滝川[2011: 3]
  5. ^ 『日本文徳天皇実録』序文では貞観13年とあるが、序文の記載内容(官位および都良香の名)と史実に矛盾があることから、貞観15年の誤りとされる(松崎英一「日本文徳天皇実録編纂過程の研究」『律令制と古代社会』東京堂出版、1984年。坂本太郎「日本文徳天皇実録」『坂本太郎著作集 第三巻 六国史』吉川弘文館、1989年)
  6. ^ 滝川[2011: 8]
  7. ^ 『日本三代実録』元慶2年2月25日条
  8. ^ 『菅家文草』巻2-93
  9. ^ 滝川[2011: 12]
  10. ^ 『田氏家集』巻中-97、『菅家文草』巻2-93,101
  11. ^ 滝川[2011: 2]
  12. ^ 『日本文徳天皇実録』序文

参考文献

  • 滝川幸司「島田良臣考」『奈良大学大学院研究年報 第16号』2011年
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