島田 良臣(しまだ の よしおみ)は、平安時代前期の貴族。(伊賀守)・島田清田の孫で、(伊勢介)・島田忠臣の同母弟[2]。官位は従五位下・大外記。
経歴
文章生から(加賀権掾)を務め、散位を経て貞観15年(873年)少外記に任ぜられる。この間の貞観13年(871年)渤海国入観使・楊成規らが加賀国の海岸に到着しており[3]、良臣が在任中であれば渤海使への応対を務めたことが想定される[4]。また貞観15年(873年)には右大臣・藤原基経以下6名に国史(『日本文徳天皇実録』)編纂の詔があり、これに参画している(この時の官位は正六位上・散位)[5]。
貞観16年(874年)大外記に任ぜられ、貞観18年(876年)従五位下に叙爵する。当時は叙爵すると地方官に転じる傾向が見られるが、良臣はこののち元慶6年(882年)まで長く大外記を務めており、外記としての能力を認められていた可能性を指摘する意見もある[6]。またこの間、元慶2年(878年)に元慶度の日本書紀購書が始まった際に良臣は都議((尚復))を務め[7]、元慶3年(879年)には『日本文徳天皇実録』が完成している。結局国史編纂開始から完成まで携わったのは、責任者の藤原基経と良臣の2人のみであった。元慶5年(881年)加賀介を兼帯するが、ここでも大外記に留まり加賀介は遙任で務めた。また、長きに亘り外記の官職にある一方で、藤原基経の近習も務めていたという[8]。
元慶6年(882年)8月13日(卒去)[9]。享年51。最終官位は大外記従五位下兼加賀介。良臣の死を悼んだ、兄・忠臣と菅原道真の手による漢詩作品が伝わっている[10]。
官歴
注記のないものは『外記補任』による。
脚注
- ^ 『外記補任』貞観15年条の年齢42歳による。
- ^ 『田氏家集』巻中-101
- ^ 『日本三代実録』貞観13年12月11日条
- ^ 滝川[2011: 3]
- ^ 『日本文徳天皇実録』序文では貞観13年とあるが、序文の記載内容(官位および都良香の名)と史実に矛盾があることから、貞観15年の誤りとされる(松崎英一「日本文徳天皇実録編纂過程の研究」『律令制と古代社会』東京堂出版、1984年。坂本太郎「日本文徳天皇実録」『坂本太郎著作集 第三巻 六国史』吉川弘文館、1989年)
- ^ 滝川[2011: 8]
- ^ 『日本三代実録』元慶2年2月25日条
- ^ 『菅家文草』巻2-93
- ^ 滝川[2011: 12]
- ^ 『田氏家集』巻中-97、『菅家文草』巻2-93,101
- ^ 滝川[2011: 2]
- ^ 『日本文徳天皇実録』序文
参考文献
- 滝川幸司「島田良臣考」『奈良大学大学院研究年報 第16号』2011年